徳川家康の父・松平清康の死因は?妖刀村正の呪い!?

  • URLをコピーしました!
スポンサーリンク

松平清康は徳川家康の祖父です。

松平清康は三河を平定したやり手でしたが、暗殺により25歳の若さでこの世を去っています。死因は斬殺でした。

徳川家康の祖父も父も若くして亡くなっていますが、その死には両者とも妖刀村正が関わっていたというのです!

今回は松平清康の死因と死の背景、そして妖刀村正伝説について解説してまいります。

スポンサーリンク
目次

松平清康の死因

松平清康の死因は斬殺でした。

しかも、犯人は自らの家臣でした。

松平清康はやり手の武将で、若くして家督を継ぎ、10年ほどで三河を平定しています。その死は突然で、あまりにあっけなく人生が終わってしまったのでした。

非運としか言いようのないその最期は、後に凶器の刀剣村正と相まって、妖刀伝説が生まれるまでになります。

この章では当時25歳の松平清康に何が起こったのか、死因とその出来事について解説してまいります。

松平清康の最期

三河をほぼ統一した松平清康は、織田氏の領地に狙いをつけます。

その当時、斎藤道三と対立していた織田領に8千の兵を連れて侵攻したのです。

1535年12月、尾張に入った松平清康は、織田信長の父である織田信秀(のぶひで)の弟、織田信光(のぶみつ)が守る守山城を攻めているさなか、陣中で家臣の阿部弥七郎に突然斬殺されたのでした。

阿部弥七郎も近臣の植村氏明(うえむらうじあき)によってすぐさま斬り殺されたといいます。

この出来事は、守山城の攻略の途中で起きたために、守山崩れと呼ばれています。

この事件により松平清康が死亡したことで、松平家は急速に衰退して今川家の傘下に下ることとなったのでした。

松平清康25年の生涯

松平清康の死は、あまりに早すぎました。25歳の若さで命を奪われた非運の武将でした。

松平清康は1511年、三河の安祥城(あんじょうじょう)で生まれました。安祥城は現在の愛知県安城市に位置します。

松平清康は弱冠13歳で家督を継いでいます。父・松平信忠(のぶただ)の代までは安祥城を持つのみの豪族にすぎなかったところから、清康の代で山中城と岡崎城を奪って三河一国を手中に収めました。

松平清康は三河を制圧したのち、織田方の信濃城、岩崎城を奪いました。狙いは美野への進出です。そのため、織田信長の父である織田信秀を攻めようとしました。

松平清康はこの通りやり手の武将でしたが、そのさなかに謀反により殺害されてしまったのでした。

しかし松平清康の功績は孫である徳川家康に受け継がれました。

松平清康は生前、家康が天下を取るための基礎固めをしたと言えるのです。

松平清康暗殺の真相

25歳の若さで命を奪われた松平清康ですが、その死には不可解なところがありました。

家臣の乱心で松平清康は斬りかかられたということになっていますが、本当のところはどうなのでしょうか?

松平清康殺害事件は守山城を攻めているさなかに陣中で起きたことから守山崩れと呼ばれています。

この章では、その守山崩れについて詳細を深掘りしていきます。

特に、実行犯として実際に松平清康を斬りつけた阿部弥七郎と、首謀者と目されている松平信定について焦点を当てて解説してまいります。

実行犯・阿部弥七郎

守山崩れには次のようなエピソードがあります。

松平清康の率いる軍勢が守山に布陣したころ、陣中では阿部定吉(さだきち)という老臣が織田方に内通しているという噂が流れていました。

松平清康は、戦のさなかではこうした噂はよくあることなので問題にしなかったといいます。

しかし身に覚えのない阿部定吉はそのままにしておくことができませんでした。

悔しさから阿部定吉は息子の弥七郎に起請文(きしょうもん)を託し、こう言い渡したといいます。

「もし万が一、わしが殺されたときは、これを提出して疑いを晴らしてくれ」

ある朝、本陣の近くで1頭の馬が暴走するという騒ぎが起きました。それを遠くから見た阿部弥七郎は、謀反の疑いをかけられていた自分の父親が殺され、そのために騒ぎが起こったと思い込んでしまいました。

そして頭に血が上った阿部弥七郎は、父の言葉を忘れて思わず近くにいた松平清康を斬り殺してしまったというのです。

耳を疑うエピソードですが、これは凶器に使用された妖刀村正が、阿部弥七郎の心を惑わせたという、妖刀伝説に繋がっていきます。

首謀者の松平信定が、自身への疑いを背けるために後に創作したものである可能性も高いです。

いずれにせよ、松平清康を殺害した阿部弥七郎も、近臣の植村氏明にすぐさま切り捨てられました。

首謀者・松平信定

阿部弥七郎による松平清康の斬殺を企てたと目されているのが、叔父にあたる松平信定です。

両者は、松平清康絶頂期といわれる時期に、宇利城攻めの際に関係が悪化したとされています。

三河でほぼ敵なしの状態だった松平清康に唯一抵抗した宇利城の熊谷氏を攻めていたときでした。宇利城攻めの際に大手門を攻めた福釜松平家の叔父、松平親盛が討ち死にしてしまいます。

松平清康は、親盛の死の原因が桜井松平家の叔父である松平信定の支援が遅れたことにあるとして罵倒しました。

松平清康と松平信定にはこの一件から確執があるとされています。これに派閥争いなどの背景も相まって、松平清康暗殺に至ったと思われます。

松平清康殺害に至った政治的背景としては、次のようなことが考えられます。

松平清康が攻めていた守山城の城主である織田信光は、松平信定の娘婿でした。そのため松平信定は、織田家との結びつきが強かったのです。

さらに松平信忠から清康に家督が相続されたとき、松平信定を擁立する派閥があり、それ以来の敵対関係だったことが考えられます。

諸説ありますが、松平信定が実行犯である阿部弥七郎を騙して松平清康を殺害させたとされています。

松平信定は前述の通り織田家と結びつきのある人物だったので、織田と通じていた可能性は否定できません。

松平清康との仲の悪さも後押しして、殺害に至ったのではないでしょうか。

もしかすると先にご紹介した阿部弥七郎の逸話も、自身への疑いを逸らすために松平信定が創作したものではないかとすら思えます。

結果、守山崩れによって松平家は弱体化し、今川家の支配下に置かれることとなるのでした。松平清康の天下取りの夢も、ついえてしまいました。

もしこれが織田方の策略であったなら、戦国の世とはいえ、恐ろしいことです。

妖刀村正伝説

松平清康の斬殺に使われた凶器が、切れ味抜群の作刀で有名な村正一派の作った刀でした。

村正の刀は、江戸時代には妖刀として世間に知れ渡りました。徳川家康はのちに、村正は徳川家に祟る刀であるとして帯刀を禁じています。

妖刀伝説がなぜ生まれたかといいますと、松平清康をはじめとして、村正の刀をめぐって不可解な死や事件・事故が続いたからです。

この章では、村正についての解説と、妖刀伝説が生まれたいきさつをご紹介してまいります。

村正とは

村正は、松平清康の殺害に使用された凶器です。

村正は、元来は伊勢国で生まれた刀工一派のことを指していましたが、転じて村正一派が作った刀剣もそう呼びます。

伊勢国は元来、天照大御神(あまてらすおおみかみ)などを祀る伊勢神宮があることから、戦国時代に入るまでは戦争のない平和な土地でした。そのため武士も少なく、刀鍛冶も必要がありませんでした。

しかし戦国の世になると各国の領地争いがいたるところで発生し、伊勢国にも刀鍛冶が必要とされるようになったといいます。

そこで最初に興ったのが、村正一派だったのです。

村正一派の開祖とされているのが、千子村正です。せんごむらまさ、とも、せんじむらまさ、とも読みます。

千子村正から数代にわたり同名の村正が続きました。何代続いたかについては諸説あり、3代とも7代ともいわれています。

4代目以降は、徳川家の忌避する村正の名を改めて、千子と名乗るようになったといいます。ちなみにこの村正は、名匠として有名な政宗の弟子であるといわれています。

刀剣村正の特徴は、脇差しや短刀が多いことです。室町時代末期に流行した美濃伝や、隣国の相州伝の作風に影響を受けているといわれています。

また、村正の刀剣は切れ味の良さにも定評があり、その殺傷能力ゆえに松平清康殺害の凶器に選ばれたのかもしれません。

村正の妖刀伝説

松平清康の暗殺からはじまる、徳川家を取り巻く一連の不可解な事件・事故を村正の妖刀伝説と呼びます。

松平清康以外の妖刀伝説としましては、以下のようなものがあります。

松平清康の子であり徳川家康の父である松平広忠(ひろただ)が討ち取られた際に使用されたのが村正の刀でした。

そして徳川家康の嫡男・信康(のぶやす)が謀反を疑われて死罪となり切腹したときに使用したのも村正。

徳川家康の妻・築山殿が殺害された際の凶器も村正の日本刀だというのです。ここまで来ると、確かに妖刀伝説といわれるだけのことはありますね。

ちなみに家康本人も、村正の刀でたびたび怪我をしたとのことでした。

これらのことから、徳川家では刀剣村正を、妖刀伝説と結びつけて忌避すべきものとされるようになったといいます。

松平清康の死因は?妖刀村正の呪い!?まとめ

以上が、松平清康の死因と死の背景、妖刀村正について解説してまいりました。

松平清康の死は、ひと口に暗殺と言うには不可解な点がありました。家臣の勘違いで悲運の死を遂げたということになっていますが、本当なのかと疑ってしまいます。

さらに代々不運が続いたため、妖刀村正の呪いであるという話に繋がったのでした。

松平清康は13歳の若さで家督を継いでからというもの、10年ほどで三河を平定した有能な武将でした。

首謀者とされている叔父の松平信定は織田家に繋がりのある人物だったので、織田と通じていたがゆえに松平清康を暗殺したのではないかという疑いも出てきます。

もし守山崩れで松平清康が死ななければ歴史は変わっていたかもしれません。天下取りという志半ばで命を奪われた松平清康は、非運の武将と呼べるでしょう。

【参考文献・参考サイト】

『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房

『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次