日本で有名な歴史人物の1人といえば、、言わずと知れた坂本龍馬!ですよね。
土方歳三と同じく老若男女問わず人気者です。彼らのように知名度や人気度は高くはないものの日本の歴史を語る上で欠かせない人物がいます。
それは当時バラバラであった四国を一つにした長宗我部元親です。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)ってご存知?
坂本龍馬と同じ土佐生まれ、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)。
織田信長とも友好な関係を築いていた長宗我部元親。
この長宗我部元親は、未だに謎の多い本能寺の変にも関わっていたという説があります。
本能寺の変のもうひとりの主役・明智光秀と長宗我部元親の関係はどんなものだったのか、また長宗我部元親が織田信長を恨む理由があったのか?
いろいろと説はありますが今回は本能寺の変と明智光秀・長宗我部元親の関与の真相を考えてみたいと思います。
長宗我部元親は色白イケメンだった?
四国の南、太平洋に面した土佐の国(現在の高知県)の豪族が長宗我部家でした。
長宗我部家の長男として生まれた長宗我部元親は幼少の頃は色白で背が高く細身で美少年だったといわれています。
そのうえ、いつも本ばかり読んでぼんやりとして軟弱な性格から『姫若子』(ひめわこ)といじられてたそうです。
今の時代だと、細くて色白の男性も人気があったりしますよね!もしかすると今だとモテるタイプ?だったかもしれません。
長宗我部家の家臣たちは、そんな元親を将来の当主として心細く思っていました。
長宗我部元親が突然、頭角を現し始めた!
長宗我部元親の最初の戦闘参加は長浜の戦い。
早ければ10代前半で初陣するのですが元親は少し遅めの22歳での初陣でした。家臣達は元親のことを武将としては役立たずだと感じていたのですが元親はこの戦いで自ら槍を持ち大活躍するのでした!
その後、元親は土佐の国を統一すると周辺の四国3郡へ侵攻を始めます。
長宗我部元親の強さは、慎重さと現実主義、勝てない戦いをしないように念入りな作戦を計画することだったのです。
これは、子供のころからの長宗我部元親の性格である“臆病さ”に基づくものでした。
また、戦国時代の流れをつかむことにも敏感であり、早くから織田信長に近づき、友好関係を築いていったのです。
その友好関係は良好で長宗我部元親の長男、長宗我部信親の名前に織田信長の“信”の字をもらってつけたくらいでした。
信長と長宗我部の親しい関係の裏に下心?
それほどまでに長宗我部元親が織田信長と親しくしたのには、いくつかの理由が考えられます。
・戦国大名として成長の著しい織田信長に注目し将来性を見抜いていた!
・四国を統一するためには、本州側からの織田信長の援軍を期待していた!
一方で、元親と親しくなることで織田信長としてもメリットがありました。
・まだ、弱小だった織田信長としては、土佐を統一した長宗我部元親の力が必要だった。
・中国地方の毛利氏を攻めるときには、味方となる大きな戦力となると考えていた。
・特に長宗我部元親の水軍は利用したいと考えていた。
また織田信長は長宗我部元親に戦いで得た四国の領域は自分のものにしていい!との朱印状(お墨付き)を与えていました。
長宗我部元親にすると四国をどれだけ自分のものにしても、将来、織田信長に攻められることはないと喜んだのです。
これを仲介したのが、明智光秀。
いよいよ、明智光秀と長宗我部元親に関係性が現れました!
元親と信長の同盟関係の立役者が明智光秀だった
本能寺の変を起こすことになる明智光秀は、織田信長の下で四国地方の取次ぎ役を担当していました。
明智光秀が四国地方取次ぎ役を担当していたのには理由がありました。明智光秀の家臣であった齋藤利光の姪は、長宗我部元親の息子・長宗我部信親の妻だったのです。
さらに、長宗我部元親の母親は、明智光秀の祖先にあたる土岐氏の出身でもあり、明智光秀と長宗我部元親は遠い親戚ともいえるのです。
力でのし上がる時代だった戦国時代において、自分の経歴が高貴であることを示すことも重要であり、天皇家に続く土岐氏の血を継いでいることは、自分が高貴であるという証明のひとつだったのです。
そのため、明智光秀と長宗我部元親はおそらく同族意識を持っていたかもしれません。
また、明智光秀は長宗我部元親との同盟関係を結ぶことで織田信長への成果を強く示したかったのではないでしょうか。
というのも、同じ織田信長家臣の中で目覚ましい成果をあげていた人物がいました。
豊臣秀吉が
羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉です!
出身も経歴も知識も明智光秀の方が上回っていると、元親は考えていたのでしょう。
豊臣秀吉よりは優位な立場にいたかったともいえます。
そのための成果が、四国攻略だったのです。
また、先にもいったとおり長宗我部元親には織田信長と関係を良くしておく理由がありました。
両者の意見が一致していたことで、明智光秀と長宗我部元親の関係は築かれたのです。
明智光秀の判断を狂わせた元親と信長の戦略
明智光秀が橋渡しをして成立していた織田信長・長宗我部元親の同盟関係が突如として失われます。
裏切り劇の始まりです!
四国の東にあった阿波の国(現在の徳島県)にいた三好氏が元親に領土を攻められたことにより織田信長に助けを求めてきました。
これから近畿圏から中国地方を織田信長軍は攻めようとしていた時だったので、四国に敵をつくると計画が進まないと織田信長は心配していたのでした。
そこで信長は元親に「土佐の国以外は元に戻せ!」と書状をおくりけるのです。
信長の突然の裏切
織田信長の突然の裏切り発言に、そりゃあ長宗我部元親は怒ります。
言うことをきかない長宗我部元親に対して、気性の荒い織田信長は「四国攻めするぞ!」といい出したのです。
焦ったのは明智光秀ですよね。
織田信長への成果を出すための同盟が、このままでは失敗してしまう危機になってしまったのですから。
光秀は家臣の斎藤利三を通じて、長宗我部元親をなんとか説得しようとしました。
一度は織田信長に反抗した長宗我部元親でしたが、そこは現実主義者、一部の条件変更だけで織田信長案に従うことにしたのです。
ところが、織田信長側が長宗我部元親を許さないといい出したのです。
織田信長の気性の荒さがうかがえますね。
本能寺の変の始まり
しかし、織田信長も長宗我部元親と同じく、現実主義者です。
もしかしたら、長宗我部元親のことを理由にして、四国を統一してしまおうと考えたのかもしれませんね。
そこには長宗我部元親の性格も考えて、どこかで折合がつけられると考えていたのではないでしょうか。
しかし、明智光秀はそこまでは考えませんでした。
「このままでは長宗我部元親を滅ぼされるかもしれない」
悪いことに四国の取次ぎ役担当を外され、明智光秀はライバルである豊臣秀吉の援軍に配属替えとなってしまいます。
同族・長宗我部元親を助けるには、織田信長を倒す他ないと考えてもおかしくありません。
こうして本能寺の変は起こってしまったのです。
明智光秀を助けられなかった長宗我部元親の想い!
本能寺の変には成功した明智光秀でしたが、予想外の早さで攻めてきた豊臣秀吉軍に負けてしまいます。
明智光秀としては、四国からの長宗我部軍が来ることを期待していたかもしれませんね。
長宗我部元親が明智光秀への援軍を準備していたかはわかりませんが、どちらにしても、土佐から海を渡ってくるには時間がかかります。
ただ、本能寺の変のあとの長宗我部元親の行動を見ると、明智光秀に味方するつもりはあったのではないかと考えられます。
元親は明智光秀を助けたかった
織田信長の跡取り争いで豊臣秀吉に負けた柴田勝家との山崎の合戦・豊臣秀吉と徳川家康が唯一対決した三方ヶ原の合戦。
どちらも、長宗我部元親は反豊臣秀吉側に味方しています。
もちろん実際の戦場には行っていないので、本音はわかりませんが、、
しかし、長宗我部元親ほどの情報に敏感な人物が、豊臣秀吉の将来性を見抜けないとは考えづらいですね。
そこは、明智光秀を助けられなかった思いがあったのではないかと考えられます。
豊臣秀吉の四国攻めの際にも、徹底した抗戦をしましたが、最後には降伏することになります。
明智光秀が起こした本能寺の変の真相!?まとめ
四国を統一し、織田信長や豊臣秀吉の時代を生き抜いた長宗我部元親でしたが、このあとは悲劇の人生が続きます。
豊臣秀吉の命令で行った九州征伐で、豊臣秀吉の家臣の判断ミスで長宗我部元親の息子が戦死、息子を失ったショックから長宗我部元親は、今までの勢いを失うことになるのです。
時代を読む力を失った長宗我部元親は、関ヶ原の戦い前年に亡くなります。
そして、関ヶ原の戦いで西軍に味方をしてしまった長宗我部家は、敗軍の罪により潰される運命となったのです。
しかしながら本能寺の変は、日本史におけるミステリーとして未だ解明されない事件のひとつです!
それは、明智光秀の裏切りの動機が、複数あったのではないかと考えられるからです。
長宗我部元親を救うことが、動機のひとつになっていたかもしれません。