大河ドラマ「光る君へ」主人公・紫式部~清少納言・藤原道長との関係は?~

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2024年放送予定のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部の人生について見ていきたいと思います。

紫式部は、今からおよそ1000年前、平安時代に活躍した女性作家・歌人です。
代表作は「源氏物語」。
「源氏物語」は全54巻に渡る世界最古と言われている超大作小説です。容姿、才能など全てを兼ね備えた光源氏と多くの女性たちとの恋愛模様などが描かれています。

学校の授業で習って、「紫式部」や「源氏物語」をご存じの方も多いと思います。
そのような誰もが知る紫式部ですが、実は、本名も生まれた年も、亡くなった年も、正しくわかっていません。

時の最高権力者・藤原道長や同じ平安時代を代表する「枕草子」の作者・清少納言など彼女とその周囲を取り巻く人々に目を当てながら、その一生を紐解いていきたいと思います。
紫式部のミステリアスな生涯を見ていきましょう。

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目次

紫式部の人生

まずは基本の情報として、紫式部という人物の概要に触れていきましょう。

紫式部は平安時代に生きた女性作家です。日本を代表する作家であり、彼女の代表作である『源氏物語』は、1000年もの長い年月を経てもなお、読み継がれている名作です。

また、作家としてだけでなく歌人としても知られています。百人一首の中にある「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」は紫式部の作品です。

特に意識していなくても、日本人の心の中にいる人物。それが紫式部と言えるでしょう。

出生~結婚

紫式部は平安中期、藤原為時(ふじわらのためとき)の娘として生まれました。出生年は定かではありませんが、西暦973年(天延元年)辺りと考えられています。母は幼い頃に亡くなっており、父親に育てられることとなりました。

紫式部の父・為時は貴族ではありましたが、さして身分が高いわけではありませんでした。しかし、詩人・歌人として広く名前を知られており、漢詩に対する造詣も深い、いわゆる「インテリ」でした。

紫式部もそんな為時の影響を受けて育ち、聡明な少女へと成長していきました。家にある本は全て読みつくし、「史記」をも暗記して父を驚かせたという逸話も残っています。

また、彼女は父の仕事場である宮廷にも、強い興味を抱いていました。父に宮廷の話をせがみ、家を訪れる多くの人々の話に耳を傾け、知識を蓄えていきました。京都の蘆山寺は紫式部が暮らした邸宅の跡地とされていますが、そこは人通りの多い場所。宮廷内の話を聞くためにはピッタリだったのです。

紫式部が14歳頃のこと、仕えていた花山帝が退位し、為時は官位を失うこととなりました。再び彼が官位を与えられたのは、それから約10年たってからでした。

為時が官位を失ってから10年後、為時は越前守に任命され、越前の地(福井県)に赴くことになります。24歳の紫式部もまた、父に従い越前の地を踏みました。しかし、約1年後に、彼女だけで京都に戻ってくることになります。

平安時代の女性は、概ね13歳前後で結婚していました。しかし、紫式部が結婚したのは27歳頃のこと。結婚が遅れた理由は定かではありませんが、当時としてはかなり遅めでした。

紫式部の夫となったのは、親子ほども年の離れた藤原宣孝(ふじわらののぶたか)です。かなり豪快な人物だったようで、質素な服でお参りすることが常識となっていた吉野の金峯山参詣の際に、息子と共に派手な格好をして出かけた、という話が「枕草子」に書かれています。

才女と豪快な人物の組み合わせは意外と悪くなかったようで、2人は喧嘩をしながらも仲良く暮らしていたとされています。娘・賢子も生まれ幸せかと思いきや、ほどなく宣孝が病気で亡くなってしまいました。わずか3年あまりの結婚生活でした。

宮中に出仕/「源氏物語」の執筆

宣孝の死後3年程たつと、紫式部は宮中に出仕することになりました。彼女が仕えたのは、藤原道長の娘・彰子(あきこ/しょうし)です。彰子はその当時、中宮の地位にありました。

彼女が宮中に入った理由。それは、道長にありました。彼が紫式部を説得し、娘の教育係的な役割を任せたのです。

紫式部が「源氏物語」の執筆を開始したのは、出仕前だと考えられます。そして、その内容は早い段階で高い評価を受けていました。だからこそ、後宮での彰子の権勢をより強いものにするために、彼女の才能を欲したのでしょう。彰子の権勢が強まり、帝の子供を身ごもることがあれば、道長の権威はよりゆるぎないものになるからです。

ちなみに、紫式部自身は出仕を望んでいなかったようです。憂鬱だけれども道長には恩がある(為時の越前守任官には、道長が手を回してくれたようです)。行きたくないけれども、行かなくてはならない。そんな気持ちを書いた文章が「紫式部日記」には残っています。

宮中で、紫式部は道長からの後援を受けながら「源氏物語」の執筆を続けていました。それは彼女のライフワークでもありましたが、藤原道長が娘の元に帝を通わせるための作戦でもありました。

当時の帝・一条天皇は「源氏物語」の大ファンだったと言われています。ファンであれば、作者がいれば会いたくなりますし、新刊が出ればすぐに読みたくなりますよね。道長は、そんなファン心をくすぐったのです。そして、その作戦は大成功しました。

紫式部の創作の裏側には、道長が見え隠れします。「紫式部日記」の執筆も、道長が要請して書かれたものだという説もあります。

「源氏物語」は小説ですが、「紫式部日記」はその名の通り、宮中で起こったことや、それに関わる紫式部自身の気持ちなどが鮮明に書かれています。多少は道長の影響(東宮の誕生に関わる描写など)は感じますが、当時の空気感を感じることのできる、隠れた名作です。

また、紫式部は漢文を流暢に読みこなすことができました。この知識を執筆に使うと同時に、彰子の教育にも使っていました。そんな彼女のことを一条天皇は「日本紀の御局」と呼んでいたと言われています。これは彼女が「日本書紀(全て漢文)」を読めたことに由来するものでしたが、本人にとっては不快だったようです。当時は、女性が漢文をたしなむことに対する偏見があったからです。

「源氏物語」を完成させた後、紫式部は宮仕えをやめることになりました。詳細は不明ですが、少なくとも6年以上は彰子に仕えていたことになります。

晩年

宮中仕えをやめてから、紫式部はどのように過ごしたのでしょうか。

当時の女性のほとんどがそうであったように、紫式部の晩年に関してはよく分かっていません。一度宮仕えをやめてから再度出仕し、彰子の元で働いていたようではありますが、それも定かではありません。

紫式部の墓所と小野篁

紫式部は、京都の紫野の地にひっそりと眠っています。現在でも彼女を偲ぶ人々が訪れ、小さな名所となっています。
紫式部のお墓の横に、もう一つお墓が建っています。それは、「小野篁(おの の たかむら)」という人物のお墓です。こう書くと、2人は生前に知り合っているかのように思えますが、そうではありません。小野篁は平安時代の貴族ではありますが、紫式部よりはるか昔の人物だからです。

京都の東山区に、六道珍皇寺というお寺があります。境内には、あの世に繋がっているとされる井戸があり、現在でも扉越しに見ることができます。

小野篁の有名な逸話に、毎夜この井戸から地獄に行き、閻魔大王の補佐をしていたというものがあります。境内に奉られる閻魔像は、彼が彫らせたものだとか。隣には木彫りの小野篁像があり、縁の深さを感じさせます。

紫式部は、そんな小野篁に、死後助けてもらったという伝説が残っています。

平安時代は恋愛に寛容な時代とはいえ、みだりに男女の関係になることは、仏教的に良くないことでした。そして、「源氏物語」には、光源氏が様々な女性と関係を持つ描写が多くあります。紫式部はそんな物語を書いた作者として、地獄に落ちる(落ちた)と考えられたのです。

そんな紫式部を救うため、小野篁のお墓が彼女のお墓の横に移されました。その結果、小野篁が紫式部を弁護し、地獄に落ちずに済んだとされています。

小野篁は貴族で歌人。また、奔放な逸話の多い人物です。もしかすると、本当に紫式部を弁護したのではないかと考えてしまう勢いがあります。

京都を訪れた際には、紫式部の墓所と六道珍皇寺の2つを合わせてお参りしてみてください。

  • 紫式部墓所
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