織田信長も脱帽 愛妻家細川忠興の生涯とゆかりの地

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細川忠興といえば明智光秀の娘であるガラシャ(明智玉子)と結婚し、愛妻家としても有名な戦国武将です。

忠興の父、細川藤孝は15代家足利義昭の擁立に尽力し仕え、後に織田信長、徳川家康に仕えています。藤孝はのらりくらりと主君を変え、卑怯に見える一方で時勢を読む力にも長けていました。藤孝の代で細川家は栄えたと言ってもよく、忠興は隆盛を誇る細川家に生まれた期待のホープでした。

細川忠興という人物に関しては、妻のガラシャとのエピソードばかりが有名となり「忠興が実際にどのような功績を残したのか」「どのような人物であったのか」知らない人も多いのではないでしょうか。

では、乱世を生き抜いた細川忠興の生涯を紐解いていきましょう。

細川忠興の人生

まず基本として細川忠興という人物の概要について触れておきましょう。

細川忠興は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将で、肥後細川家の初代当主です。

京都出身の忠興は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった時代の大名に仕え【戦国三英傑】に仕えました。やがて時代の変遷と共に進み、小倉藩初代藩主として豊前国での治世を築き上げました。

出生~結婚

細川忠興は、永禄6年(1563年)に京都で生まれ、室町幕府の第13代将軍足利義輝に仕える細川藤孝の長男として誕生します。

忠興は、永禄の変後、父・藤孝と共に織田信長に臣従し、その後も信長の子孫である秀吉に仕えました。

忠興は、天正6年(1578年)に織田信長の勧めで明智光秀の三女、玉子(後にガラシャと改名)と結婚。

当時、忠興とガラシャは15歳でした。現代で考えると両者とも若すぎますよね。

ですが、戦国時代では男児は数え年15歳から18歳(12歳~18歳の地方もあった)で元服し、大人の仲間入りを果たしたので、この年齢での結婚は珍しいことではありません。

忠興とガラシャの結婚は、いわば政略結婚。ですが、二人は愛し合い、長女の長と長男の忠隆をもうけました。

しかし、二人に転機が訪れます。織田信長が討たれた本能寺の変です。

本能寺の変の首謀者は、ガラシャの父である明智光秀。その後、光秀は討たれ亡くなってしまいますが、残されたガラシャは謀反人の娘になってしまったのです。

謀反人の娘を正室に迎え入れているとなれば、細川家の体裁は良くありません。

忠興はガラシャを味土野に幽閉します。その間に別の正室を迎えず、ほとぼりが冷めたころに忠興はガラシャの細川家に帰しました。

ガラシャが幽閉されている期間に、忠興は正室であるガラシャを廃し、新たな正室を迎え入れることはできたはずです。

忠興が新たな正室を迎えなかったのは、たとえ謀反人の娘であろうとも、ガラシャを心の底から愛していたからでしょう。

ガラシャとの別れ

幽閉が解かれ、一緒に暮らし始めた細川忠興とガラシャ。

しかし、長い幽閉生活はガラシャを変えてしまいました。キリシタン大名高山右近と接触したことをきっかけに、ガラシャは熱心なカトリックとなります。

父を殺され、自身も謀反人の娘として冷遇されたことで救いを求めていたのかもしれません。

慶長5年(1600年)天下分け目の大合戦。関ケ原の戦いが勃発します。石田三成はガラシャを人質として要求。しかし、三成の要求を拒否し自死を選びました。

一方、忠興は関ケ原の合戦に徳川側の大名として参戦し首級136を挙げています。しかし、関ケ原の合戦を機に、忠興は愛するガラシャを失ってしまったのです。

晩年

細川忠興は関ケ原の合戦で勝利した徳川家康に仕えました。

元和2年(1616年)に肥後八代城へ移り住み、晩年は三斎宗立と称して剃髪し、文化人として活動しています。

寛永9年(1632年)に肥後熊本へ加増転封され、正保2年(1645年)12月2日に83歳で死去しました。

忠興の生涯は、戦国大名としての功績だけでなく、文化人としても高く評価されています。とくに茶道の発展に寄与しており、現在も継承されている三斎流の開祖として知られています。

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細川忠興ゆかりの地

戦国大名としてだけでなく文化人として高い教養を備えた細川忠興。

忠興という人物について知りたくなった人もおられるのではないしょうか。

ここでは細川忠興ゆかりの地と周辺のおすすめのお店などを紹介します。

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