島原の乱で徳川将軍滅亡の危機に!?この乱が成功すれば日本は占領されていた?

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自称「生まれながらの将軍」だった徳川三代目将軍家光(いえみつ)。

このお坊ちゃま将軍家光の時代に起きた島原の乱が、江戸時代10大事件にまで発展すると予想した人がいたでしょうか?

ひとつ間違えると島原の乱は徳川将軍家を滅亡させるかもしれない事件だったのです。

徳川三代目将軍家光に迫った危機とはなんだったのか?その危機に気付いた将軍家光がとって行動とは?

島原の乱を徳川将軍家光側から真実に迫ってみます!

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目次

将軍家光は島原の乱を田舎のトラブルと考えていた!?

板倉重昌

1637年12月、江戸にいた徳川三代目将軍家光のところへひとつのニュースが入ります。

「島原・天草地方で一揆発生!」

今の長崎県南部の半島で起こった一揆。将軍家光はこの一揆を小さな事件だと思いたいしてきにもとめていなかったのです。

島原藩に任せておけばそのうち解決するだろうと思っていたのです。

ところが、島原・天草地方で発生した一揆は収まる様子がありません。

島原の乱と呼ばれたこの一揆は、参加人数を増え城が占領される事態にまでなってしまいました。

大ごとになってきた島原の乱

これはかなりマズい一揆かもしれないと感じた将軍家光は、九州の大名に指示して討伐軍を向かわせます。

一応、徳川幕府軍なので総大将を江戸から派遣させることにします。

総大将になった板倉重昌(いたくらしげまさ)は、とっても真面目な人でした。真面目だけど、討伐軍のトップに立つには低い役職だったことが裏目に出てしまいます。

なんといっても九州の大名たちは、優れた武力の持ち主ばかり。

戦の経験者も多く、低い役職の板倉重昌に従う九州大名などいるはずがないのです。

板倉重昌をナメている九州大名たちは、なかなか指示どおりに動いてくれません。統一性のない軍は、人数が多いだけで全く役に立ちません。

島原の乱勢力強し!!!

一方の島原の乱を起こした勢力は、難攻不落の原城に立てこもりヤル気も満々です。

九州大名を中心とした徳川幕府軍は、この島原の乱を起こした勢力に二度も負けてしまったのです。

「島原の乱で徳川幕府連敗中」の報告を聞いた将軍家光は、島原の乱がかなり重大な局面にあることを察知します。

お坊ちゃま将軍の自覚のある将軍家光のスゴいところは、危機回避の能力も持っていることです。

そして、その危機に対応できる優秀な部下を揃えていることです。人材を見る目があることが、将軍家光の才能だったのではないでしょうか。

そんな家光の優秀な部下の活躍が始まります。

将軍家光のブレーン登場が島原の乱の行方を左右した!?

将軍家光には二人の優秀な部下がいました。

その1人だった松平信綱(まつだいらのぶつな)は影では知恵伊豆(ちえいず)と噂されていました。

松平信綱が伊豆守(いずのかみ)という役職を持っていたことや、その頭の良さから巷で評判となり知恵伊豆という、いかにも優秀そうなニックネームがつけられました。

将軍家光は、板倉重昌の代わりにこの知恵伊豆こと松平信綱を島原へ向かわせます。まず、松平信綱がやったことは情報収集です。

まずは情報収集から

驚いたことに、島原の乱で原城に立てこもっている人たちの目的が1つではなかったというのです。

・税金が重すぎて払えないといってる農民

・キリスト教を止めろといわれて腹立っているキリスト教信者

・仕事を失くして貧乏生活をしている浪人(武士)

・強制的に参加させられた人たち

目的がバラバラであることがわかった松平信綱は、いくつかの作戦を実行します。

作戦その1「天草四郎を説得しろ!」

島原の乱の中心人物・天草四郎のお母さんと妹を連れてきて、城の外から説得をしてみました。 相手は16歳の青年です。お母さんの説得なら考え直すかもしれないと考えました。

作戦その2「オランダ船から艦砲射撃!」

原城の沖にオランダ船を行かせて、船から大砲を打ちまくりました。 ずっと原城に立てこもっていても、助けになんか誰も来ないぞと思わせるためです。

作戦その3「城の中から内部崩壊!」

裏切ってくれたら殺したりしないから、城から出ておいでと誘う手紙を何度も送りました。 特に強制的に連れていかれた人たちに向けて送ったものでした。

この作戦で降伏する人たちはいませんでしたが、原城に立てこもっていた人たちの中には、動揺して逃げ出そうとした人たちが出てきました。

これこそが、松平信綱の狙いだったのです。

一致団結して戦っているように見える原城に立てこもる人たちの団結力を失くすことだったのです。

この作戦はすぐに成果はありませんでしたが、だんだんと効果が現れていくことになります。

将軍家光もひと安心!無事に島原の乱を鎮圧!

松平信綱の実行した作戦は、少しずつ原城に立てこもる人たちの団結力を奪っていきました。

キリスト教の信者ではない人たちや無理やり参加させられた人たちは原城から脱走するようになってきたのです。

そして、脱走者が原城から逃げていく決定的な理由が、「飢え」であることを松平信綱が知ることになります。

原城から攻めてきた兵士の死体の胃には、まともな食べ物が残っていなかったのです!

老人や女性・子供も多く立てこもっていた原城には、すでにほとんど食べ物が無かったのでしょう。

松平はさらに兵糧攻めで追い込み・・・

それを知った松平信綱は原城を大勢の軍で囲み、さらに食べ物が原城へ運び込まれることのないようにします。

いわゆる兵糧攻めです。

神の助けを信じて結束していたキリスト教信者も食べなければ生きてはいけません。次々と飢え死にするものが出てきました。

勇ましく戦っていた武士たちも、何日も食べて無ければ士気も下がり十分な戦闘などできるはずがありません。

原城に立てこもった人たちが弱ってきたところを見計らい松平信綱は総攻撃を加えます。 このときも九州の大名たちは予定通りには行動しなかったようです。

松平信綱ほどの優秀な人でさえ従えられないほど、九州大名は荒くれ者だったのでしょうね。

すでに原城に立てこもっている人たちは、兵力も体力も弱っていたことでしょう。

九州大名を中心とした徳川幕府軍に耐えることなどできるはずがありません。

あっという間に、原城に立てこもっていた勢力は徳川幕府軍に制圧されてしまいました。

将軍家光が恐れた「もしも島原の乱が成功していたら?」

九州大名を中心とした徳川幕府軍を大量に向かわせてまで、将軍家光は島原の乱を鎮圧させました。

将軍家光のブレーンであった知恵伊豆こと松平信綱をはじめ、島原の乱には将軍家光の優秀な部下も多く参加させました。

島原の乱には、二刀流や巌流島の決闘で有名な宮本武蔵も参加していたとは驚きです。

ここまで島原の乱を鎮圧することに将軍家光が力を入れたのにはワケがあったのです。

もしも、島原の乱が成功していたら、将軍家光には悪夢の想定があったからです。

想定その1「ヨーロッパ諸国による日本占領計画」

当時の先進国であったオランダやポルトガルなどのヨーロッパ諸国が、キリスト教の神父をスパイにして日本占領を計画していると考えられていました。

全国に広がったキリスト教信者を先導して、一斉にテロを起こすことも考えられました。

島原の乱はその成功例になるかもしれなかったのです。

想定その2「九州大名による西日本政権誕生」

九州や西日本には多くの力のある大名が存在していました。

徳川幕府や将軍家光に少しでも油断があれば、反乱を起こしてもおかしくない状態。

もし、島原の乱の鎮圧に時間がかかれば、徳川将軍家光など大したことのない人物と見られるかもしれません。

九州や西日本の大名が結束して徳川幕府に反乱、西日本政権を作る可能性だってあったのです。

外国勢力か九州大名かいずれにしても、家光が島原の乱成功を防ぐ必要がありました。

島原の乱の成功は、将軍家光と江戸幕府が滅亡するかもしれない重大事だったのです。

島原の乱が無事に鎮圧されたと聞いて、もっとも安心したのは将軍家光だったのではないでしょうか。

島原の乱で徳川将軍滅亡の危機に!?この乱が成功すれば日本は占領されていた?まとめ

島原の乱の最後は、女子供も一人残らず殺されるという悲惨なものでした。

そこまで徹底して殺害したわけも、ヨーロッパ諸国や九州の大名たちへの見せしめだったのでしょう。

将軍家光に逆らえば、皆殺しにするという恐怖のメッセージだったはずです。

島原の乱の2年後にはポルトガルを追い出し、オランダも出島に閉じ込めるという「鎖国」が完成します。

キリスト教徒の弾圧も続き、表むきのキリスト教信者は少なくなっていきます。

全国の有力な大名たちも将軍家光に従う姿勢を、よりはっきりと見せるようになります。

こうして徳川三代目将軍家光の時代に、江戸幕府は安定したといわれます。

外国からの脅威を防ぎ、国内の戦争の種も失くしたことで、平和な江戸時代がいよいよスタートしたのです。

島原の乱は、その転換点となった大事件であったことは間違いないといえますね。

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