徳川家光の性格が弟・忠長を自殺に追い込んだのか!?嫉妬心や長年の恨みが理由?

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「男の嫉妬は女の嫉妬の100倍怖い」とはよく知られたこと。

徳川幕府三代目将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)は、嫉妬心の強い人物だったといわれています。

徳川家光はその嫉妬心から、実の弟まで自殺に追い込んだのですから尋常な嫉妬深さではありません!韓国ドラマ顔負けの嫉妬深さだったのです。

そこで今日は、徳川家光の気持ちを歪めたものは何だったのか?弟殺しが徳川家光に与えた影響とは何だったのか?

その真相を探ってみたいと思います!!

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目次

徳川家光はブサいくで暗くて体の弱い子だった!?

子供の成長に親の愛情が必要であることは、今も昔も変わりません。

徳川秀忠(とくがわひでただ)の次男として徳川家光は生まれました。

本来であれば将来を保証された跡取り息子です。将軍様の息子としてチヤホヤされて育てらるはず・・・

ところが、徳川家光は父親からも母親からも嫌われてしまうのです。

将軍には到底無理な容姿と体質だった!

生まれながらに体が弱く病気がちで何度か瀕死状態に陥ったこともあるとか。また会話するときに言葉がつまる症状もあったといわれます。

病弱だけならまだしも残念なことに、顔もブサイクだったと言われています。

顔にできものがあり、そんな家光を母親は気にいらなかったようです。自分の息子を容姿や体質で気に入らないとは、母親もかなり性格が悪くないですか?

こんな環境で育った少年・徳川家光は、おかげで暗い性格になります。

顔が悪くて性格も暗く、吃音症で何を話しているのかさえわからない家光を、父親である徳川秀忠は将軍にはふさわしくないと思ったようです。

両親の愛情不足に深く悲しむ家光

春日局

こうして父親にも母親にも愛されない孤独な少年時代を、徳川家光は過ごすことになります。

自分が愛されない人間であることを悲しんだ少年・徳川家光は、のどに刀を刺して自殺さえ考えます。

徳川家光の自殺を止めたのは、妹と自分を育ててくれた養母・春日局(かすがのつぼね)でした。兄として慕ってくれる妹、母親のように愛してくれる春日局は唯一の徳川家光の味方でした。

両親から愛情を注いでもらえなかった家光は、春日局に対し、自分を愛してくれる人を離したくないと強く思うようになります。

そんな人に対するこだわりの性格は、この少年時代にできたのでしょう。

愛されなった恨みは弟の死で償わせる!?

徳川忠長の肖像

徳川家光には徳川忠長(とくがわただなが)という実の弟がいました。この弟・徳川忠長というのが、徳川家光とは正反対。 

正反対の兄

明るくて活発、ハキハキしたイケメンというのですから、親からしたら理想の子供だったのでしょう。

徳川忠長のこの理想的ともいえる性格や顔は、本能寺の変で死んだ織田信長に似ているともいわれます。

徳川家光・徳川忠長の母親は、織田信長の血を継いでいたからです。

父親と母親の愛情をいっぱいに受けて、少年・徳川忠長はすくすくと育ちます。その間、寂しさと孤独の中で育った徳川家光。

太陽のように天真爛漫な弟・徳川忠長に、憎しみを持ち続けたとしてもおかしくはないでしょう。

同じ両親から生まれながら、なぜ自分だけが差別を受けなくてはいけないのか。

徳川家光の憎しみの炎が心の中で燃え続けます。

弟の徳川忠長が将軍にふさわしいのではないかとの声も聞こえる中、徳川家光を将軍にしようとした人物がいます。

春日局が家光を将軍に推薦

徳川家光を子供のように育ててくれた養母・春日局です。

この頃には、まだ徳川幕府の創始者で初代将軍・徳川家康(とくがわいえやす)が生きていました。

徳川家光は長男であり将軍になる権利も持っていると、春日局が徳川家康を説得したのです。

やがて家光が徳川将軍の後継になることが確実視されると、忠長はだんだんと家光や父・秀忠との関係もぎくしゃくしてきます。

兄・忠長へのいやがらせがひどい

初代将軍・徳川家康という強力な権力者を味方にした徳川家光は、抑え続けた弟・徳川忠長への嫉妬心を表に出し始めます。

川を渡りやすくするために徳川忠長が作った橋にいいがかりをつけます。

「江戸に敵を入りやすくするために橋を造ったのだろう!」

猿の被害にあっていた人たちのために、徳川忠長が猿を駆除したときも同じです。

「神の遣いである猿を殺すとは、なんて罰あたりなやつ!」

ひとつひとつの徳川忠長の行動に文句を言っては、領地を没収したり、自宅待機をさせたりします。

何をやっても徳川家光から嫌がらせを受け、徳川忠長の精神はしだいに病んでいきました。

「大阪城をくれっ!」

「もっと領地が欲しい!」

おかしな言動が多くなった徳川忠長。

兄・忠長の奇行は続きとうとう身を滅ぼす。。。

実は家光が将軍になることが決まったあとも忠長は駿河の大大名という結構いい身分においてもらえます。

しかし、何を思ったのか忠長はだんだんと素行がおかしくなっていくのです。大人しく、駿河で真面目に仕事をしていればいいのに、家康の遺品を人にあげたり、家光が居住している区域で狩りをしてみたりとおかしな行動が続きます。

とうとう、忠長は領地を奪われ罪人扱いされてしまうことに・・・逼塞という謹慎処分をうけてしまいます。

なんだか転落人生って感じですね。その間、家光はもしかするとずっと忠長に嫌がらせをつづけていたのかもしれません。

その後、忠長は28歳の若さで最後には自刃します。晩年は兄を困らせていた忠長ですが本当に自刃だったのかどうかは謎です。

罪人になってしまった忠長を邪魔におもった家光が自殺に見せかけて殺めたという説もあります。

家光の長年の恨みに耐えきれず自刃したのなら、徳川家光は長い年月をかけて、実の弟・徳川忠長への復讐を成し遂げたことになりますね。

これが本当ならとっても執念深い徳川家光の性格がわかります。

徳川家光には同じ境遇のもう一人の弟がいた!?

徳川家光には、もう一人弟がいます。

父親・徳川秀忠の四男で母親が違う弟・保科正之(ほしなまさゆき)です。

保科正之像

徳川秀忠が、奥さん以外の女性に産ませた子供です。嫉妬深い奥さんを恐れて、徳川秀忠が隠してしたのです。

徳川家光の嫉妬深い性格はもしかするとお母さんである江の遺伝子なのかもしれないですね。

そんな環境で育った保科正之もまた、徳川家光と同じく親の愛情を受けらなかったのです。

徳川家光が自分にもう一人弟がいたことを知ったのは、自分が将軍になってからのこと。

意外!家光・腹違いの保科正之をブレーンに

自分と同じ境遇に育った弟・保科正之への同情もあったのでしょう。

徳川家光は自分のブレーンの一人にします。

保科正之も頭が良く真面目で、とっても控えめな人物でした。

誰からも慕われる人柄は、ひとつ間違えると徳川家光から嫉妬されることもあったでしょう。

保科正之を実の弟のように信頼していた家光

保科正之の立派なところは、どこまでも兄・徳川家光を将軍として扱ったところなのです。

どんなに周りが「将軍の弟」と扱おうとしても、自分は徳川家光の家臣であると言い続けたことなのです。

のちに会津藩(今の山形県)の藩主になる保科正之ですが、その方針は会津藩の家訓にも残っています。

「会津藩は徳川家のために働きなさい。それを守れないものは私の子孫とは認めない。」

これほどまでに自分を愛してくれる弟・保科正之に、徳川家光は感動さえしたかもしれません。

もう一人の弟・徳川忠長もこれくらいの態度を示していれば、死なずに済んだかもしれません。

徳川家光は自分が亡くなるときには、弟・保科正之に将軍のシンボルカラーを使うようにいいます。

これは保科正之が正式な弟であり、将軍であるも同じだと表わしたものでした。

互いに親の愛を知らずに育った兄弟として、徳川家光が信頼していたようすがわかります。

保科正之は、徳川家光の子・四代将軍家綱(いえつな)もサポートし続けることになります。

徳川家光の政策は自分を愛してもらうため!?

300年にも渡る平和な江戸時代は、徳川家光の作った制度によるといわれます。

例えば、「六人衆」

古くからいたオジさん幹部を辞めさせ、若くて優秀な人物を自分の周りに採用します。

その6人の優秀なブレーンに政治のほとんどを任せたのです。もちろん、徳川家光のためならどんなことでもやってくれる人たちです。

それまでは将軍の考えで決めていたことを話し合いで決める制度は、今の内閣のような制度だったようです。

さらにもうひとつは、参勤交代制度です。

参勤交代は、2年に一度各地方藩主が江戸へやってくる制度として知られています。

簡単に言えば、徳川家光将軍様をわざわざ見にくるわけですよね。

徳川家光にしてみれば、「俺ってみんなから愛されてるよなぁ」と自己満足できる時間だったのではないでしょうか。その一方で、自分に歯向かうものには容赦はしません。

徳川家光に反抗しそうな(妄想含む)ものには、罠を仕掛けてでもつぶしていきます。

先程の六人衆に反乱を起こすための手紙を書かせ、各藩に送り付けます。

その内容を報告してこなかった藩は、反抗心ありとしてつぶしていったのです。

徳川家光の時代につぶされた藩は、江戸時代最多の44家にもなったといいます。

さらに、日本を占領しようとした外国には「鎖国」を発動して締め出しました。

同じ理由で、キリスト教の信者も次々と逮捕・拷問をしていきました。

これは「島原の乱」にもつながっていきました。

愛に飢えた将軍・徳川家光は、その政治にまで自分への愛を確かめ続けたのです。

徳川家光の性格が弟・忠長を自殺に追い込んだのか!?まとめ

どこまでも愛されたいと願った三代将軍・徳川家光

その愛情不足からくる執念深さが、実の弟を死ぬまで追い詰めたのです。子供のころの環境がこれほどまでに影響を与えるものなのですね。

代わりに自分に永遠の愛を誓うものには、絶対的な信頼を与えるという極端な性格でもありました。

これだけを見ると、徳川家光が将軍として適しているとは思えません。

しかし、徳川家光の自分第一主義の考えが、新たな制度を作り出す発想にもなりました。

徳川幕府が平和な安定した時代だった理由は、そこに愛されたい気持ちがあったからなのかもしれませね。

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