鬼の副長、土方歳三。
このフレーズを耳にした方も多いのではないでしょうか。
日本史上でもかなり人気のある新選組。そんな土方歳三は「島津を恨んでいた」ということがささやかれています。
新撰組と薩摩藩(島津)は協力関係にあったこともありましたが、最終的には敵同士になりました。
では土方歳三は薩摩の島津を恨んでいたのか?その因縁は?ということで土方歳三の人物像から薩長との争い、その命を終えた箱館戦争までを追ってみたいと思います。
土方歳三と新選組のなりたち
土方歳三は多摩の豪農の10人兄弟の末っ子として生まれました。
薬の行商をしながら、剣術を修め、道場に来ていたのちに新選組局長となる近藤勇と出会います。
実戦では非常に強く、冷徹で合理的、隊の規律に厳しかったことから「鬼の副長」と呼ばれましたが、和歌や俳諧を嗜む一面もあり、やはり女性にはものすごくもてたそう。
服装や髪形が坂本龍馬と同じように時代の最先端を行ってますね。
ついに新選組誕生!
新撰組は、清河八郎が京都へと向かう将軍警護のために浪士を募集したのが始まりです。
浪士だけでなく町民や農民も応募し、採用されました。
当時は浪士組と呼ばれていました。あまり気合の入った名前には思えませんよね。本来浪士ってあまり意味ではありませんからね。むしろ自虐的。みなさん不満はなかったのでしょうか……。
京に到着後、清河が浪士組を天皇の配下にしようとしていたことが発覚し、話が違うと反発した者は江戸に戻ってしまいます。
みんな、将軍警護と思ってやってきたので仕事内容が違うじゃん!と怒ったのでしょう。
新選組の前身集団・壬生浪士
そして、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨など一部が京都に残って会津藩が預かりの壬生浪士組を結成して、京の治安維持の任に着きました。
当時の京都は長州藩士らの尊王攘夷運動や討伐運動の場になっており、非常に治安が悪化していたのです。
近藤勇派vs芹沢鴨派の内部抗争などもありましたが、徐々に功績を重ねていきます。八月十八日の政変ではその働きを評価され、新選組という名を与えられました。
これは朝廷か松平容保が名付けたと言われていますが、どちらにしても拝命という名誉を得たことは間違いありません。相当に嬉しかったことでしょう!
そして翌年、池田屋事件が起こります。
新撰組といえば池田屋事件
ハ月十八日の政変の後、京都から追われてしまった長州でしたが、ひそかに戻って、中川宮を幽閉し、京都守護職にあった松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州に拉致するというとてつもない計画を立てていたのです。
それを知った新選組はその計画の謀議の場となりそうな場所を突き止め、近藤勇・沖田総司らは池田屋へ、土方歳三らは四国屋へと向かいました。
池田屋には過激な倒幕派の長州藩・土佐藩・肥後藩など二十名あまりの尊王派が会合していました。
外周りを隊士たちに固めさせておいて、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平八のわずか四名で斬り込み、のちに駆け付けた土方歳三らも加わって死闘を繰り広げ、多くの尊王派藩士の討ち取りや捕縛に成功。
暗殺もよからぬ事ですが、天皇を京都から力づくで連れ出すなど、空恐ろしい考えです。
それを見事未然に防いだ新撰組は一躍有名になったのです!
その副作用で、この時池田屋に早く来すぎて出直したため、難を逃れたという長州の大物桂小五郎の運の良さも、150年後まで語り継がれるほど有名になったくらいです。
この事件で、長州は藩内の激高した強硬派に引きずられるような形で挙兵し、約1ヵ月後京都で禁門の変を起こしますが、会津藩・薩摩藩・新選組らによって鎮圧されました。
この池田屋事件と禁門の変での功績は朝廷・幕府・会津藩から大いに認められ、新選組の名声は天下に轟きました。
薩摩・長州 vs 幕府
幕府から第一次長州征討を受けるなどして、長州藩は孤立し窮地に陥っていました。
そこへ持ち上がった話が薩摩藩との同盟です。
禁門の変で敵対関係が決定的となっていた薩摩と長州ですが、薩摩藩も自らの主張する幕政改革が思うように進まないことに業を煮やしていたのです。
薩摩は武器の入手ができなくなっていた長州に代わり、武器を調達してやるなどの経済的協力をしました。
その後、土佐の脱藩浪士坂本龍馬らの斡旋で、薩摩からは西郷隆盛ら、長州からは木戸貫治(桂小五郎)らが会談に赴き、薩長同盟が成立しました。
この時は主に敵として認識されていたのは、一橋・会津・桑名でした。
いくら利害が一致するとはいえ、ほんの一年ほど前に戦った相手と手を結ぶというのはかなり抵抗があったと思います。不信感も相当あったでしょう。
しかし、この同盟により薩摩は第二次長州征討における幕府の出兵命令を拒否して、長州を支援しました。結果的に幕府は長州征討に失敗し、薩長は連携を深めていくのです。
第二次長州征討の失敗から幕府の権威は大きく失墜したものの、徳川慶喜の政治力は侮れないと感じた薩長は倒幕の動きを強めていきます。
武力による倒幕も辞さないとしていた薩摩に対して、土佐の山内容堂は武力の行使には慎重で、大政奉還の建白書を提出しました。
慶喜はこれを受け入れて大政奉還を奏請。
250年続いた徳川幕府は幕を閉じました。
幕府は終わったはずなのになぜ戊辰戦争は始まった?
とはいえ、実質的には幕府はまだ変わらず存在していたのです。
慶喜から実権を奪うため岩倉具視、大久保利通らの活動により王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職、領地返上が決定しました。しかしその決定は次第に骨抜きになってしまいます。
倒幕の密勅が下され、薩摩は江戸で放火や略奪を行い幕府を挑発し、それに怒った庄内藩や勘定奉行小栗忠順が薩摩藩邸を焼き討ちにしました。
こうして会津ら旧幕府派と薩長ら反幕府派はますます敵対していきます。
そして戊辰戦争が始まります。
戦争拡大の中、新撰組のたどった道
戊辰戦争は一年半に渡る複数の戦争の総称です。
薩摩・長州・土佐を中心とする新政府軍vs会津を含む旧幕府軍という構図になります。
新選組は会津藩預かりの組織ですから、完全に薩摩藩島津家と新選組は敵同士です。
戦端は鳥羽・伏見で開かれました。
この戦いには御陵衛士の残党に負傷させられていた近藤勇は不在で、土方歳三が新選組の指揮を取りました。
内部抗争
考えの違いから徐々に新撰組から孤立し、のちに御陵衛士を結成した伊藤甲子太郎は薩摩と通じていました。
また新選組との抗争の中で、土方と試衛館以来の同志であった藤堂平助も命を落としています。
伊藤甲子太郎側に付くことになった藤堂平助ですが、池田屋事件では共に戦った同志。土方がその死を少しも悼まなかったとは言えないでしょう。
鳥羽伏見での敗戦
旧幕府軍は指揮系統の乱れが生じ、新政府軍に錦の御旗が翻るのを見て動揺。総大将の慶喜が軍を置いて江戸へ逃亡したことから敗北しました。
新撰組も江戸へ引き上げましたが、一時200名はいたとされる新撰組は戦死、脱走などでわずか40名あまりになっていたと言われています。
その後も新政府軍と戦い続けた新撰組ですが、結成当時からの同志も井上源三郎は戦死、原田佐之助・永倉新八は離脱、近藤勇は新政府軍に捕まり処刑、沖田総司も病死してしまいました。これがわずか半年ほどの出来事です。
土方歳三はどんな気持ちで戦い続けたのでしょうか。仲間は死んでいき薩摩からの裏切り。土方が薩摩に属する島津を恨むのは当然のことです。
箱館・五稜郭を占領後、榎本を総裁とする蝦夷共和国が作られ、土方も幹部になりました。
約半年間の箱館戦争の中、冷静で有能な指揮官として活躍したようです。しかし最後には新政府軍の総攻撃が始まり、土方も銃弾を受けて絶命してしまいます。
薩摩は始めは幕府側でした。しかし幕府に任せていては日本は外国に踏み荒らされると考え、幕府を見限りました。その為、新選組の敵になりました。
仲間を次々失って箱館の地で土方は何を思っていたのか。本気で新政府軍に勝って、榎本らと蝦夷共和国を作り上げようとしたかもしれないし、そうではないかもしれない。
今となっては想像するしかありませんね。
土方歳三が島津を恨む理由とは!夢破れた土方の最後をみていく!まとめ
鬼の副長と恐れられ、法度を作って多くの隊士を粛正し、近藤勇を支え、最後まで戦い続けた土方歳三。
女性たちからの多くの恋文を自慢し、和歌を嗜み、箱館戦争では同志に酒を振る舞い、まだ若年の小姓を死なせないために、わざと自分の遺髪と写真を家族の元に届けるよう命じて戦場から遠ざけたと言います。
もちろん、彼が薩摩に対していい感情を抱いていたはずはないと思いますが、それは人であれば無理からぬ事ではないでしょうか。