「御用改めである!手向かうならば容赦なく斬る!」
新撰組を有名にした池田屋襲撃事件の名セリフです!その新撰組局長、トップにいたのが近藤勇です。
映画やドラマの近藤勇は、剣術が上手で勇気があり、仲間思いで人情に熱く、どこか憎めないキャラクターとして登場します。
そんな近藤勇ほどの男が、自分の最後に命を助けて欲しいと言ったのは本当でしょうか?
もし本当なら近藤勇ファンとしては少しガッカリなような気もしますが、、 今日は新撰組や池田屋襲撃事件にも触れながら、近藤勇の生きざまを辿りその真相に迫ります!
武士ではないのに剣の達人!近藤勇はどんな人物?
近藤勇は、1834年(天保5年)武蔵国(今の東京都調布市)に農家の末子として生まれました。
父親の影響で中国のヒーロー本『水滸伝』や『三国志』などが好きだったと言います。
『水滸伝』や『三国志』には、諸葛孔明や曹操などの理想のリーダーがたくさん登場します。
仲間を信じ、部下を思い、ときには厳しくも、最後には全責任をとるという近藤勇のリーダー的な考えは子供の頃に読んだ中国の書物から影響されたといってもいいかもしれませんね。
近藤勇・子供の頃から冷静な判断力
また、子供の頃の近藤勇には、こんな話があります。叔父の家に強盗が入ったことがありました。
すぐに強盗に立ち向かおうとした兄を止めた近藤勇は、 「立ち去るときこそ強盗は気が緩むはず」 そう言って、帰り際を襲おうといいます。
簡単に物を盗むことができて安心していた強盗は、家を出ようとしたこところを二人に襲われ、慌てて全部を置いて逃げてしまいました。
近藤勇にはどんな状況でも冷静に、一番良い方法を見つける才能があったのです。
剣術は天然理心流という流派を身につけます。
この時代は習い事のひとつとして剣術道場が流行していました。
近くの道場に入った近藤勇でしたが、練習熱心なこともありどんどん上達していきます。
最後には、天然理心流を継ぐ立場にまでなるのです。
この道場では、のちに新選組の鬼の副長と恐れられた土方歳三や飛ぶハエを斬り落とした剣の天才沖田総司など、新撰組の主力となるメンバーとも出会います。
土方歳三も沖田総司も、近藤勇を兄のように思っていたのですから、面倒見のよい人物だったのでしょう。
近藤勇の作った新撰組とはどんなもの?
1863年(文久3年)京都へ行く14代徳川将軍・家茂は、自分を警護するメンバーを募集します。
近藤勇たちは、この警護隊「浪士組」に参加して京都へ行くこととなります。
「浪士組」の当初の仕事は14代徳川将軍・家茂の警護でしたが、京都に来てからは京都市中の治安維持を任されます。今でいう警察のような役割です。
京都での治安維持の仕事ぶりが認められ、近藤勇たちは「新撰組」と名乗ることを許されます。
のちに「壬生の狼」と京都の人たちや敵対する浪士たちから恐れられる「新撰組」はこのとき誕生します。
徳川幕府の京都警護機関であった京都守護職のトップ松平容保から正式に認められた新選組。
農家の出身でありながら、憧れの武士となった近藤勇たちは、ますます仕事に励んで活躍します。そんな中、近藤勇率いる新撰組を一躍有名にしたのが「池田屋襲撃事件」です。
池田屋襲撃事件の概要
近藤勇たち新撰組は、京都での反乱勢力(尊王攘夷派の浪士)捜査をしていました。捜査中に捕まえた人物から、京都市中へ放火をして天皇を拉致する計画があることを知ります。
計画実行のために旅館・池田屋に集まると考えた新撰組は、近藤勇の指揮のもと一斉に捕まえることにします。
会合に集まった尊王攘夷派の浪士は、約40名。←近藤勇たちからすると反乱勢力
2時間ほどの戦闘の末、その場で死亡したもの9名、事件後死亡したもの7名、捕まったもの18名という大成功を収めます。
映画などでは血を吐きながら戦う沖田総司を、近藤勇が気遣うシーンが印象的なこの事件。
明治政府で活躍する木戸孝允は、この会合に遅刻したために助かったという話も有名です。これ以後、新撰組と言えば誰もが恐れる存在になり、局長近藤勇の名前も誰もが知るほどの有名人になるのです。
もし、これほど有名人で無ければ近藤勇も死なずに済んだかもしれません。
近藤勇の目指した理想の武士像・鉄の掟「局中法度」とは?
近藤勇を話をするには、新撰組の鉄の掟「局中法度」を忘れてはいけません。
局中法度は5か条からなり、
一、武士道に反する行動をする事
一、新撰組を抜けること
一、勝手にお金をかせぐこと
一、勝手に裁判に訴えること
一、喧嘩をすること
この掟に違反した場合は、切腹することを約束させたのです。
多くの反乱勢力の重要人物などを殺した新選組ですが、この局中法度に違反してで切腹や殺された新撰組隊士の方が多かったとも言われます。
この局中法度は、近藤勇が小さな頃に憧れた『水滸伝』や『三国志』に出てくるリーダーたちの教えを規則として守らせたものです。
近藤勇のような農民や町人も新撰組なら武士になれる。
そのための掟が、局中法度だったのです。
近藤勇が命乞いをした本当の意味とは!?
武士よりも武士らしく生きた近藤勇は、どうして命乞いまでしたのでしょう。
ここまで理想の武士集団として活躍を続けてきた近藤勇たち新撰組。
しかし、大政奉還によって政治の権限が天皇に移った頃から、立場悪くなっていきます。
天皇をトップにした新政府軍に対し、徳川幕府軍が反乱勢力となってしまったのです。
徳川幕府軍に味方した新撰組も、反乱勢力とされました。新政府軍に連敗する徳川幕府軍と一緒に東へと逃げる新撰組。
近藤勇は、東へと攻めてくる新政府軍に対抗するため甲陽鎮撫隊という新しい部隊を作ります。この近藤勇の作った部隊は活躍することなく新政府軍の攻撃に敗北し、近藤勇も捕まってしまうのです。
はじめは別名を名乗っていた近藤勇でしたが、新政府軍の中に近藤勇の顔を知るものがいたためにバレてしまいます。
近藤勇のここまでの活躍や人柄を知って、処刑することに反対したものもいたといいます。
しかし、坂本竜馬暗殺の犯人が新撰組と思われていたので、坂本竜馬の出身であった土佐藩(今の高知県)が近藤勇を処刑するように強く言ったそうです。
処刑されることを覚悟した近藤勇は、ここで命乞いをします。
「これほど有名な人物を処刑するのだ。代わりに二人の若者を助けてやってくれ。」
その二人とは、ここまで一緒に戦った新選組隊士で当時25歳だった野村利三郎と相馬主計でした。
近藤勇の命乞いとは、自分のためではなく、未来のある若い隊士たちのためだったのですね。部下思いの近藤勇らしい話です。
幕府軍最後の戦い箱館戦争に参加します。
野村利三郎は戦死しますが、相馬主計は新撰組最後の隊長となります。
近藤勇の首はどこへ?
武士の理想を追い求めた近藤勇でしたが、最後は斬首刑となって亡くなりました。
武士にとって切腹は、自分で責任をとって死ぬことですが、首を斬られる斬首刑は罪を犯したとして殺されることなので不名誉とされていました。
近藤勇にとっては、悔しい最後だったことでしょう。
近藤勇の斬られた首は、当時の処刑の名所・京都の三条河原に晒されます。
しかし、その後の首の行方ははっきりとはわかっていません。
近藤勇の首をはねたものによる京都の東大谷に葬ったとありますが、実際には愛知県の宝蔵寺で供養されたというのが有力です。
この宝蔵寺には、元新撰組三番隊組長・斎藤一が首を取り返して供養を依頼したと言われています。
斎藤一は、漫画「るろうに剣心」にも登場する重要な人物です。
首だけではなく、近藤勇の胴体の行方もいろいろな説があります。処刑された後、兄が供養したとも言われますが、新撰組最後の生き残り永倉新八が供養して墓を建てたという説もあります。
永倉新八は、近藤勇とは故郷から一緒に京都へ行ったメンバーのひとりで、漫画「ゴールデンカムイ」にも登場しています。
近藤勇の最後は、武士としては不名誉な死に方でした。
しかし、近藤勇の話の中には必ず仲間や部下との熱い絆が出てきます。近藤勇は、理想のリーダーといつまでも愛され続けているのです。