日本はかつて鎖国を行っていた時代がありました。鎖国というのは他の国とは一切関わりを持たないというもので貿易や往来をしていませんでした。
当時そんな状況を打破しようと奮闘した人がいました。今日は、当時の日本の流れに逆らい、開国をしようと必死だった青年について解説しようと思います。
その名も吉田松陰。
今でこそ外国にいくのはたやすいことですが、当時としては外国人を受け入れるということも外国へいくということもとても難しかったのです。
グローバル化が重要視され進められる現代では、考えられない思想ですよね。
それではさっそく吉田松陰の生涯をみていきたいと思います!
吉田松陰とはどんな人? 9歳で教授見習い!
吉田松陰は1930年に長門国(現在の山口県)の萩で生まれ、6歳で玉木文之進の家に養子に出されます。
玉木は兵学者であり、幼少の松陰に早くから論語や儒教など、様々な教養を身に着けさせます。
松陰の学識の深さは藩内で評価を受け、長州藩の藩校である明倫館の教授見習いを任されることになりました。
当時の松陰の年齢は、なんと9歳!まだ子供ですよね!
その若さで教授見習いとは、いかに博識だったのかが分かりますね。
吉田松陰・アヘン戦争に衝撃
それから吉田松陰は藩政改革に着手することになります。
松陰が11歳の時、当時長州藩の財政再建に着手していた藩主毛利敬親に招かれ、城で御前講義をさせられました。
するとその出来栄えが良く、明倫館の若き秀才・吉田松陰の才能を認められることとなるのです。
そして同じ頃、清がアヘン戦争でイギリスに敗北。
やがてその事実を知った松陰は、「日本という島国もいずれ清のような状況になってしまうかもしれない」と強い危機感を抱くようになります。
今までの自分の価値観が揺らぐほど、衝撃的な事実を知った瞬間だったのかもしれませんね。
松蔭・長崎で西洋文化を学ぶ
そして吉田松陰は学問で西洋の事情を知る必要性を感じ、20歳の時に西洋文化の窓口であった長崎を訪問します。
そこで唯一日本との交易が認められていたオランダ船に乗船する事となり、西洋の技術水準の高さに衝撃を受けました。
それと同時に、日本の立ち遅れた現状を知る事となったのです。
それから西洋の兵学に興味を持ち、江戸に留学をして佐久間象山の下で西洋の兵学など進んだ西洋の兵法などを学んでいきます。
1954年、米国との通商条約を締結するためペリーが浦賀に上陸。
その際、当時24歳の吉田松陰は小舟に乗ってペリーの船に接近し、米国渡航の交渉を行うという大胆な行動に出たのです。
なんとも怖いもの知らずな行動ですよね!!若さゆえの熱意みたいなものがあったのでしょうか。
吉田松陰は鎖国に反対していた
日本は当時、鎖国政策をとっており、海外渡航は禁止されていました。発覚すれば死罪の可能性もある重罪です。
しかしながら吉田松陰は
「外国の進んだ文明を早く取り入れないと日本の清のように西洋諸国に支配されかねない」
という危機感もあり、ぜひとも渡航したいという希望がありました。
しかし残念ながら松陰の海外渡航は、米国から拒否され失敗に終わります。
吉田松陰は常に世界の進んだ技術を学びたいという世界的な視野に富んだ人物でした。そのため、当時の鎖国政策をとる幕府からは要注意人物として警戒されてしまいます。
松陰は幕府の鎖国政策を破った罪で獄中生活を強いられる事になります。
松下村塾を引き継ぐ
やがて罪が許された吉田松陰は、叔父の行っていた松下村塾を引き継ぎ教育者としての人生を歩むことになります。
松陰が松下村塾を引き続いたのは1957年。松下村塾で2年程度の指導を行います。
吉田松陰が松下村塾で数々の輝かしい人材を輩出したのは有名な話ですが、それがわずか2年という短い期間であったとは驚きですね。
当時松陰は、遅れた日本の技術や政治体制では日本を西洋から守る事は不可能と考えていたようです。
西洋の文化を学ぶことで日本の国力を上げ、西洋からの侵略を防ぐ仕組みが大事であり、そのために学問を学ぶことの意義を感じていたのです。
吉田松陰は、外国に負けない近代的な国を作るには、現在のような幕藩体制では限界があり、いずれ天皇家を中心とした国家像>を描いていたと言われています。
時の大老である井伊直弼が、天皇の許可も得ず勝手に外国と通商条約を結び開国を断行しました。
井伊直弼は強い姿勢で開国を断行し、反対派は容赦無く粛清していったのでのちに、反対派の恨みをかい暗殺されてしまいます。(桜田門外の変)
こころざしなかばでこの世をさった吉田松陰
吉田松陰は大老井伊直弼が反対派の粛清を行った安政の大獄に反発。
幕府の朝廷の許可のない状況での外国との条約締結を非難するなど、幕府政治の批判の罪を問われ、幕府から江戸に護送されることになります。
ですが当初、幕府は極刑を言い渡すつもりはなかったようです。
しかし、吉田松陰は安政の大獄の中で老中の襲撃計画を自ら自白。
当初、幕府は吉田松陰を幕府批判について問いただす程度で釈放の予定であったのですが、老中暗殺をすすんで自白したため急遽死罪にします。
享年30歳。
あまりの若さに、衝撃ですよね。
吉田松陰は萩から江戸に取り調べられた後、再び萩に帰る事も可能でした。
しかしながら松陰には主張したい正義があり、その信念のためには老中襲撃計画を自ら進んで告白したほうがいいと思ったのかもしれません。
吉田松陰と松下村塾の教育
吉田松陰は松下村塾で兵法や論語、歴史、地理、政治など幅広い分野を指導したと言われています。
特に激動する世界情勢の分析に不可欠な「世界史」の学習に、かなり力を注いだそうです。
当時日本を取り巻く状況は、アヘン戦争以降とても危機的な状況でした。
ロシアの南下政策やアメリカのアジア進出など、一刻の猶予もない時期である事を塾生たちに教えたのかもしれません。
松下村塾で特徴的だったのは、松陰が一方的に講義をするのではなく、多くの諸問題に塾生同士が議論を行う形式がとられていたこと。
日本では大学でよく行われている「ゼミナール形式」の授業ですね。
教授である松陰も議論の中に時に参加し、深夜まで真剣な学習会が行われたそうです。
世界の列強に負けない国作りを行おうと議論しながら、将来の日本の在り方を考えていたのかもしれません。
松下村塾門下生の名だたる顔ぶれ!
明倫館の教授であった吉田松陰。彼が設立した松下村塾には、長州藩の志士たちが集まりました。
塾生の中には幕末から明治にかけて活躍した人物が、多数含まれています。
- 久坂玄瑞(尊王攘夷活動の中心メンバー)
- 高杉晋作(奇兵隊創設者)
- 前原一誠(元参議)
- 伊藤博文(初代内閣総理大臣)
- 山縣有朋(短い期間ながら在籍する。後の内閣総理大臣)
- 山田顕義(日本法律学校(のちの日本大学)の創立者)
一つの塾にこれだけの人物が集まるだけでも、吉田松陰がいかに魅力的な指導者だったわかりますね。
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吉田松陰の言葉が感動的だった!
吉田松陰は幼少期より人を指導する立場にあり多くの名言を残しています。特に有名なものを2つほど紹介します。
「学者になってはいけない。実行しなければならない」
物を学ぶことは人として大事であるが、人や社会と実際かかわる事で、発生する多くの問題解決に知識を使い実践するべきだ。そうでなければ理論だけになってしまう。という意味です。
また安政の大獄の時に読んだ辞世の句で、あまりに有名なものがこちらです。
「身はたとえ武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
松陰が処刑されるときに、弟子に対して今の心境を語った句です。
吉田松陰は極めて過激であり、最初は弟子たちも先生についていけないと思うほどでした。
松陰は、今の政治体制は時代遅れであり、天皇家を頂点に日本は一つにまとまり強い国を作り、外国勢力からの脅威を取り除かないといけないと考えていたのです。
したがってこの吉田松陰人生最後の句は、たとえ自身がこの世から去りその存在が消えたとしても、自身の信念はこの世においていくので、ぜひ私の思いを受け継ぎ、新しい国家を建設してほしいとの想いを、弟子に伝えるためのものだったのです。
松下村塾の生徒たちの多くは、吉田松陰の考えに最初からすべて同意しているわけではなかったものの、最終的には討幕まで進むこととなりました。
その強烈なエネルギーは、吉田松陰がまいた思想が影響していたと言っても過言ではないかもしれません。
吉田松陰とは?簡単にわかりやすく解説・まとめ
吉田松陰は常に学問を通じて世界の趨勢を見極め、日本のあるべき姿を真剣に考え抜いた人物です。
彼は常日頃から実行することこそが大事と考えて危険を顧みず、異国船に乗り込み、欧米の高い文化や技術を自分の目で確かめようとしていました。
吉田松陰は様々な偉大な弟子を輩出しましたが、その弟子たちよりももっと早くから未来を見据えて行動した人物です。
長州の志士たちは、当初高杉晋作や伊藤博文さえ過激すぎると考えた松陰の考えを、最終的に実行することとなります。
吉田松陰は未来を予見できる偉大なカリスマだったともいえるでしょう。
吉田松陰は外国からも評価されていた
松陰の事を最初に書物に書いた外国人がいます。
イギリスの作家スティーブンスン。
「宝島」で知られた著名な作家です。彼は「ヨシダトラタロウ」という伝記で吉田松陰について語りました。
吉田松陰は世界の中での日本を常に意識し、危険を顧みず行動できる視点の広い進歩的な人物だったからこそ、海外からも古くから評価されてきた人物といえるでしょう。
もし今の時代に吉田松陰が存在したら、日本は今後どのような変化を遂げるべきと考え、どのように行動を起こすのか、想像してみるのも楽しいのではないでしょうか。