神のお告げを受けた16歳の美少年・天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)。
天草四郎を先頭に37,000人もの人たちが原城に立てこもって、2ヶ月半の間を戦い続けた島原の乱。たった一人の高校生が、大勢の大人を味方につけて困っている人たちを救うために、政権相手に戦ったようなものです。
しかし、その最後は老人から女子供が一人残らず殺されるという悲劇的なものでした。。。
なぜ、そのような大虐殺となったのか?女子供が悲劇的な死に直面してしまったのか!
今日はその謎に迫ります!
島原の乱は女子供も参加した日本最大の計画的一揆だった!
1637年、現在の長崎県で起こった日本最大の一揆、それが島原の乱です。
島原の乱が日本最大の一揆になるほどの人数になった理由がいくつかあります。
・たくさんの税を払うように言われていた農民が多かった。
・キリスト教を止めるように徳川幕府より命令されていたため、
・キリスト教信者の不満があった。
・災害があり生活に困っている人たちが増えていた。
大きくこの三つの原因が重なったことで不満をもつ人が増えていたのです。
普通は一揆と言えば農民が中心です。
しかし、生活するためのお金に困っていたのは、漁業者や商人・武士などにもいました。
さらに、老人や女子供まで貧しい暮らしをする状況にあったのです。
また、島原の乱が他の全国の一揆と違っているのは、武士が参加していることです。
戦闘のプロである武士がいたことで、農民や商人などの仕事が違う人たちや、女子供や老人といった年齢や性別も違う人たちを兵士としてまとめることができたのです。
そのおかげで、島原の乱の開始からは4ヶ月、原城立てこもりだけでも2ヶ月半という長期間を戦うことができたのです。
女子供もトリコにした島原の乱の天草四郎は作られたキャラだった!?
島原の乱には、キリスト教と天草四郎を欠かすことはできません。
長崎県の南の端にある島原地方とお隣の天草地方は、戦国時代からキリスト教が広く普及していた地域でした。
島原・天草地方を治めていた殿様がキリスト教の信者だったのですから、自然と住民もキリスト教を信仰していたのです。
キリスト教信者を味方につけるため、天草四郎はキャラ設定された人物だとしたら面白いですよね。
実は、天草四郎を実際に見た人は少ないといわれていることは知っていますか?
キリスト教の神であるイエス・キリストが起こした奇跡と、天草四郎は同じことができたと宣伝されました。
天草四郎の「奇跡」は口コミで噂が広まり、キリスト教を信じていなかった人たちも天草四郎の奇跡は信じていたのです。
天草四郎という神のような超人をシンボルにすることで、キリスト教信者だけでなく、女子供など一人残らず島原の乱へ参加させることに成功したのです。
島原の乱の計画者たちが「キーワードはキリスト教」をやり過ぎた!?
神的超人・天草四郎を作り上げることで、37,000人もの人数を集めることに成功した島原の乱の計画者たち。
さらに最終決戦は、今は使われていない原城という岬の先にある城にします。
立てこもる場所を難攻不落の城を選ぶところが、武士も参加した島原の乱らしいところですよね。
島原の乱の計画者たちの構想はこうです。
・人数をたくさん集めて、島原藩に対抗勢力をつくる。←成功!
・原城に立てこもって長期戦にする。←今ココ!
・長期戦にすれば島原藩からイイ条件が引き出せる。
・キリスト教信者が多いから、外国からの応援も来るかも!?
外国からの応援は本当に考えていて、長崎にあったポルトガル領事館に応援をお願いしています。
ところが、計算違いが出てきます。
立てこもり人数が多すぎたことで島原藩だけでは対応できなくなり、徳川幕府が鎮圧に来ることになりました。
さらに、キリスト教の信者の考え方を甘く見ていたことです。
奇跡を信じるキリスト教信者たちが、島原の乱を「聖戦」として戦い出したことです。
聖戦とは、神のために戦うことなので、神のために死ぬことで天国にも行けちゃいます。
死ぬことが怖がらない人たちが攻めてくることを想像してみてください。
相手をする徳川幕府軍は、「キリスト教信者ってヤバいやつ!」ってことになったのです。
このことが、女子供も一人残さず殺せ!ということにつながっていったのです。
島原の乱はお腹が空いたから負けてしまった!?
キリスト教というキーワードのおかげで島原の乱に集まった農民・商人・武士、老人・女子供に至るまで、全員一致団結して戦うことができたのは事実です。
実際、徳川幕府軍は何度も撃退されています。
撃退されればされるほど、徳川幕府軍には恐怖心が増幅していったはずです。
「もしかして天草四郎って本当に神なの?西洋の神様って、マジ強いのかも?」
天草四郎神様説が徳川幕府軍にも口コミで広まっていったのです。
それでも徳川幕府軍は冷静に状況を判断していました。
死んだ敵の腹を開けてみると、まともな食事をしていないことがわかります。
神様だってお腹は空くんだなってことがわかった徳川幕府軍は、原城周辺を徹底して封鎖し食料を持ち込めないようにします。
老人や女子供まで含めて大人数が原城に立てこもっていることが、むしろ負担になってしまったのです。
「腹が減っては戦はできぬ」とばかり、原城の立てこもり作戦はだんだんと力を失っていきます。
タイミングを見計らって徳川幕府軍が総攻撃をしたことで、島原の乱は終結へと向かいました。
島原の乱では女子供一人残らず殺された!悲劇はなぜ起こった??まとめ
原城に立てこもっていたキリスト教信者をはじめとする人々は、徳川幕府軍の総攻撃に耐えられず次々と殺されていきました。
自分を神だという(噂のある)天草四郎を恐れた徳川幕府軍は、誰も見たことのない天草四郎を全力で探して殺すことにしていました。
でも、どれが天草四郎かわからない、もしかして女かも、いや子供かもしれない・・・・・
こうして老人や女子供一人残らず、原城に立てこもっていた37,000人全員を処刑していったのです。
生き残ったのは、徳川幕府軍への内通者のたった一人だけといわれます。 今でも島原の乱の犠牲者の遺骨が原城からたくさん出てきます。
作戦は大成功だったのですが、おかげで相手の恐怖心をあおってしまいました。
島原の乱のせいでキリスト教が入ってくることを恐れていよいよ鎖国が発表になります。 ポルトガルも入国が禁止されてしまいます。
多くの犠牲の元、日本を世界から孤立させるきっかけが島原の乱だったと考えると、とても壮大な事件だったような気がしてくるのです。