鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか?
武士のカリスマ、源頼朝が創設した鎌倉幕府。
約150年続いた武家政権でしたが、多くの困難に見舞われそれらが複雑に絡んだことで鎌倉幕府は衰退の一途を辿ることになります。
今回は鎌倉幕府が滅亡することとなった主な理由を順に説明していきたいと思います!
鎌倉幕府独自の相続システムが問題?分割相続
鎌倉幕府滅亡の理由、まず1つ目は分割相続による所領の細分化です。
鎌倉時代は分割相続がメジャーでした。これは父の死後、父の所領は嫡子や庶子問わず、子供たち全員に相続されるというものです。
そもそもなぜ所領を分割する必要があるの?
なんて思われるかもしれませんが、この頃多くの御家人(幕府と主従関係にあった武士のこと)が広大な所領を有していたので、子供たち全員に分配するのが最も合理的だったのです。
これは後継者云々の争いとは無縁の公平なシステムでした。
ところが土地は分割すればするほど1つ分の面積が小さくなりますよね?
広大だった所領は気付けば縮小化・細分化され、それによって一族の力も分散されていきました。
このままでは家の存続が危ぶまれます…!
これなら1人だけに相続させる方がむしろ合理的じゃない?ということで鎌倉時代後期では嫡子単独相続という嫡子のみが所領を相続できる方法が主流になります。
鎌倉幕府特有のこの公平な相続システムは時代が下るにつれそのデメリットが顕著に表れ、一族の維持を困難にさせたのです!!
それ以後室町~戦国時代にかけて嫡子単独相続が一般的になります(まぁこれにもデメリットはあって、誰が家督を継ぐか否かの後継者争いが頻発してしまうのですが…)。
戦争・徳政令によるしわ寄せ…御家人の貧窮化
2つ目は御家人の貧窮化です。
御家人の収入源はズバリ所領から得られる年貢でした。年貢は主に米や麦などの現物、中期からは次第に銭で納めるようになっていきます。
所領が広ければ広いほど収入はアップ、豊かになりますよね。
ですが先ほどの分割相続による土地の細分化により、年貢量は年々減少してしまいます。
戦でもあれば新恩給与といって、新しい土地をゲットできるのですが…。
時代が下るにつれ幕府の支配力も高まったため、このご時世幕府に喧嘩を売る輩などいません。
よって新恩給与も期待できませんでした。
御家人はわずかな所領から得られる年貢を頼りに何とか口に糊をしている生活を送っていました。
頑張って勝利したものの借金生活…元寇
そんな中1274年、元(モンゴル帝国)が日本に攻めてくる事件が起こりました。
数年間に続いた対外戦争、ご存じ元寇です。
元軍は対馬、壱岐、博多と次々攻撃、圧倒的な兵力の差を見せつけられた日本軍はガクブル状態。
元軍撤退(1回目は脅しに来ただけです)後、幕府は早速石塁の構築、異国警固番役(元の再来に備えた軍役)を主に九州の御家人に命じました。
「生活は苦しいケド勝ったら恩賞が貰えるから頑張ろう…(;´・ω・)!」
その一心で御家人たちは家財や土地を質屋に売ったり※借上(今でいう金融業者)にお金を借りたりして何とか戦費を工面、皆その役目を遂行しました。
(※借上は「かしあげ」と読みます。ちなみに江戸時代、各藩の財政難を打開する措置として借上という言葉が再登場しますがこちらは「かりあげ」と読みます。ややこしいね)
そして1281年に元が再び日本を攻めてくるのですが、幸運にも台風が直撃、一夜にして元軍はほぼ全滅し、日本側が勝利します。
ですが真に問題なのはここからでした。
元寇とは日本からすればとどのつまり防衛戦争。端から物質的な恩賞なんて用意されていません。ましてや土地なんてなおさらです。
その上元がまた攻めてくるかもという警戒心からか石塁造りや軍役は継続されました(因みに幕府が滅亡するまでずっと続きます)。
御家人「戦費を賄うため土地を売り、ついには借金までしたのに…(´;ω;`)」
結局戦争に勝って得たものは多額の借金のみ。
頑張った御家人にとってこの結果は何とも酷でした。そりゃあ泣きたくもなるよね…。
救済者となるはずだった幕府…永仁の徳政令
幕府はそんな借金漬けの御家人に救いの手を差し伸べます。
それが永仁の徳政令と呼ばれるものです。
- 越訴(裁判の再審請求)の禁止(←所領を巡る裁判が頻発しており面倒だから幕府側が受け付けるのをやめたんです。翌年廃止されましたが。)
- 土地の売買禁止
- 貰った土地は元の持ち主に返すこと
端折りましたが大体こんな内容です(③に関しては条件があるのですがここでは割愛します)
この法令、当初は御家人の借金をチャラにしてくれるということもあり期待されていたのですが…、皆さんご存じの通り大失敗します。
そもそも御家人が土地を売った理由ってお金に困っていたからですよね?
たとえ借金は無くなっても、その後の軍役などでまた新たなお金が必要になってきます。
それがこの法令で土地の売買が禁止され、お金を工面する術が無くなってしまったのですから大変です。
しかもこの法令による借金踏み倒しを恐れたのか、今度は借上(かしあげ)からもお金を貸してもらえなくなりました。
御家人はますます貧窮化し新たな借金が膨れ上がる日々。こうして永仁の徳政令は大失敗に終わります。
仕方のないこととはいえ、幕府の信頼感はガタ落ち、最悪の結果を招いてしまいました。
この一件で幕府は人々にとって救済者どころかむしろ災厄となってしまったようです。
最悪だけに。(渾身のボケです。笑ってください)
一見無関係のようにも思えるけど…?貨幣経済の浸透
気を取り直して3つ目は貨幣経済の浸透です。
鎌倉時代はすでに貨幣経済が浸透しており、全国に貨幣が流通していました。
先述した通り、御家人の収入は米などの年貢でしたね。貨幣経済の到来により御家人は年貢を換金する必要がでてきました。
で、それがどうしたのよ?と疑問に思われる方もいるかもしれません。
実はこの貨幣経済によって物価の変動が生じ、御家人の収入にバラツキができてしまったのです。
どういうことかというと、例えばスーパーで買い物する時「この商品、去年より値上げしてるなぁ」なんて思ったことありませんか?
あれはその年の生産量や天候、原価などによる物価変動が原因なのです。
特に野菜や米などの作物は自然災害にモロに影響を受けやすいのでよく価格が変動します(今も野菜高いですよねぇ)。
これと同じことが、鎌倉時代でも起こってしまったのです。
ちょうどこの時期は小氷期が到来していたこともあり、冷害による影響で例年より不作や凶作になってしまった場所も少なくありません。
豊凶の差が年度によって激しく変動し「去年は高く売れたのに今年はこの値段でしか売れなかった!」という御家人の収入の不安定化が起こってしまったのです。
もし不作・凶作の年に元寇での大量の戦費を支出せざるを得なくなったら…生活が破綻する御家人が続出するのも頷けます(-_-;)
現代では当たり前のことすぎてあまりイメージが湧かないと思いますが、物価変動ってこんな具合に不安定な生活になる一因にもなりえるんですよ。
あとは急速な貨幣の流通に対応できなかった御家人や、都市に出回るぜいたく品による銭の消費なども挙げられます。
貨幣が流通し利便性が増した半面、このような弊害も起きてしまったのですね。
鎌倉幕府はなぜ滅亡したのか?まとめ
鎌倉幕府は様々な要因が積み重なって衰退していきました。
所領の細分化による土地の縮小化、貨幣経済による弊害、元寇による膨大な出費と無いに等しい恩賞、そして徳政令で救済されるかと思ったら先の見えぬ借金地獄…。
「御恩と奉公で飯が食えるか( `―´)ノ!」とうとう我慢の限界を感じた御家人たちは倒幕運動に加担することとなります。
各地の武士は倒幕に向け次々と挙兵、1333年、ついに鎌倉幕府は滅亡してしまいました。
時代は彗星の如く現れたスーパーヒーロー(?)後醍醐天皇の作った建武政権へと移り変わるのです…!
【参考文献】
北条高時と金沢貞顕 やさしさがもたらしーた鎌倉幕府滅亡