高山右近はマニラで亡くなった?壮絶な人生を紹介

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戦国武将が亡くなった場所、と言えばどこを思い浮かべますか?

まずは戦場ですね。
戦場は当然ながら、日本国内を思い浮かべますよね。
その次が朝鮮出兵などで、朝鮮半島で亡くなったのを思い浮かべるのではないでしょうか。
ですが、マニラ(フィリピン)で亡くなった戦国武将がいます。
それが高山右近です。

戦国武将とフィリピン、一見結びつかなさそうなこのお話を今回はご紹介します。

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目次

実は高山右近の両親もキリシタンだった

高山右近と言えば、キリシタン大名として有名ですよね。

「キリシタン大名と言えば?」と聞けば、歴史好きな人はまず最初に挙げる名前ではないでしょうか。

ですがその右近が、なぜキリシタンになったのかは意外と知られていません。

実は右近の両親がキリシタンだった事が大きく影響しています。

父親である高山友照がイエズス会のロレンソ了斎の話に感銘し、洗礼を受けました。

そして自身の領地に戻ると、家族や家臣にキリスト教の素晴らしさを話し、洗礼を受けるように導きます。

こうして右近はキリシタンへの第一歩を踏み出す事になりました。

ちなみに右近の両親の洗礼名は父親の友照がダリヨ、母親はマリアです。

 わずか10歳で「ジュスト」に

こうして両親の影響を大きく受けた右近は、わずか10歳で洗礼を受ける事になります。

両親がすでに洗礼を受け、家臣にも洗礼を受けた人がいれば10歳の右近にはそれが当たり前に思えたのかもしれませんね。

右近の洗礼名は「正義の人」を意味する「ジュスト」とされていますが、読み方には「ユスト」とする説もあります。

ポルトガル語読みかラテン語読みかの違いですが、右近の使用していた花押には「重」や「寿」の字が使われていたので、本人は「ジュスト」と名乗っていた可能性が高いです。

生死を彷徨う高槻城主への道

キリシタンとしての第一歩を歩み始めた右近は父親とともに、当時畿内で大きな勢力を誇っていた三好家に仕えます。

しかし1564年(永禄7年)に三好長慶が亡くなると、三好家は内紛などで衰退。

本来の領地である摂津国に戻ろうにも、豪族の池田家や伊丹家などが独自の力を強めていて、まさに戦乱の世のまっただ中でした。

そんな中、1568年(永禄11年)に織田信長の手により足利義昭が室町幕府15代将軍となり、状況は一変します。

足利義昭は和田惟政を高槻城に置いて、伊丹親興と池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命します。

これにより、高山父子はこの3人のうちの和田惟政に仕える事になりました。

ですがこれで安泰とはいきません。

1571年(元亀2年)、白井河原の戦いで和田惟政が討死し、高山父子の主君はまだ17歳と幼い和田惟長となります。

 主君からの父子暗殺と荒木村重との出会い

惟長は人望が高い高山父子を危険視するようになっていきます。

この際、和田家に長らく仕えている家臣は高山父子を邪魔に思っていたともされています。

結果、惟長は高山父子の暗殺を決断。

しかしその決断の知らせはすぐに高山家にも届き、父友照は暗殺の件を荒木村重へと相談します。

荒木村重は織田信長から摂津国の全領有確保の承諾を得ており、この頃には摂津国のほとんどが荒木のものとなっていました。

当時の織田家の勢いと、すでに摂津国のほとんどを取っている荒木を鑑みると、友照が相談に行くのも当然と言えますね。

そして荒木は友照に「殺される前に殺すべき。兵の援助は惜しまない」と言って、高山家に2万石の所領を与えると保障。

これにより高山父子は惟長の返り討ちを決断します。

惟長が会議と偽って高山父子を高槻城へと呼び出しますが、当然それがただの会議でない事を分かっている高山父子も、やるなら今しかないと狭い室内での乱戦へ。

この際右近は惟長に致命傷を負わせるも、自身も大きな傷を負います。

一説では首を約半分も切断するほどの傷を負ったとされていますが、真偽は不明です。

しかしこの戦いで右近が生死の境を彷徨うほどの傷を受けた事は事実で、誰もがもう助からないだろうと思っていたところを奇跡的に生還。

これに右近は「神のおかげだ」とより一層キリシタンへの道を歩むきっかけとなりました。

 高槻城主へ

この惟長返り討ち事件後、高山父子は荒木の支配下に入り、高槻城主になります。

本来の領地である摂津国で城主になる事ができたのです。

高山家が入城してからは高槻城の改修が行われ、石垣などを造ります。

そして父友照が隠居をすると、ついに右近が高槻城主へとなりました。

荒木村重を取るか織田信長を取るか

ですが戦乱の世はそう簡単に安寧をくれません。

織田に与していた荒木が突然、謀反を起こしたのです。

高槻城主となってからは荒木に与していた高山家は、荒木と織田の板挟みとなってしまいます。

右近はなんとか荒木を止めようと、自分の息子と妹を人質へと差し出しますが、これがさらなる悩みの種となってしまう事に。

荒木は右近の説得を受け入れなかったのです。

結果、荒木の元に右近の人質だけが残る形となってしまい、高槻城内は徹底抗戦派と開城派で割れてしまいます。

 宣教師の説得と織田に降る決断

困り果てた右近は尊敬するオルガンティーノ神父に相談。

オルガンティーノ神父は「織田の降るのが正義だが、よく祈って決断せよ」と助言を与えます。

そして右近は1つの決断を下します。

それは領地も何もかもを捨てて、頭を丸め、紙衣(かみこ)のみの姿で、たった1人で織田信長の所へ行くというものでした。

どちらにも加担しないという選択を取ったのです。

その結果、右近の離反という痛手を食らった荒木は謀反に失敗。

信長は右近の潔さを気に入り、出家をする必要はないと、武将としての地位を約束しました。

 再び高槻城主に

こうして一度は捨てた高槻城主に返り咲いた右近。

さらに信長から功績を認められ、加増も受ける事になりました。

また、右近は信長が安土城城下に建築した邸宅を諸将に与える際に右近にも授与されたり、京都御馬揃えでは一番隊で摂津衆として参列するなど、信長からの信頼を得ている事がうかがい知れます。

すべてを捨てどちらにも加担をしないという選択が、一番良い結果をもたらすとは、右近さえも夢にも思わなかったでしょうね。

高山右近の布教

その後も右近は城主として武将として活躍しつつ、熱心に布教活動を続けます。

右近は人徳の人として知られ、右近の影響でキリシタンになった人は多数存在します。

黒田官兵衛や蒲生氏郷らも右近の影響でキリシタン大名となり、まさに右近は戦国時代のキリシタンの中心人物だったのです。

当時日本にはすでに仏教が広まっていた中で、名だたる武将達をキリシタンに導く事はとても大変な事だと、私達でも想像ができますね。

 領内は教会だらけに

そんな右近の領地は当然のように寺社が減っていきます。

領民もキリスト教を信仰するようになり、寺社がどんどん寂れていったのです。

しかし寂れていく寺社側から見れば気分のいいものではありません。

事実、右近の領内の寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊された」といった記述があります。

ですがその反面、フロイス日本史などのキリスト教側では、違った記述がされています。

「右近は領民や家臣に入信の強制はしなかったが、右近の影響力が絶大であったために、領民のほとんどがキリスト教徒となった」

「そのため、廃される寺社が増えたので寺を壊して教会建設の材料とした」と記されています。

実際、右近は寺社へ所領安堵状も出しているので、信仰の強制はなく右近の人徳による絶大な影響力でキリシタンが増えたのでしょう。

キリシタン迫害、そしてマニラへ

しかし右近の影響力は大き過ぎました。

当時、信長が焼き討ちをした比叡山延暦寺など、寺社は聖域とされ手出しができない場所となっていました。

治外法権とも呼べる場所になっていたのです。

そこに新たに加わった、どんどん数が増えるキリスト教は次第に、天下人の目の上のこぶになっていきます。

もしキリシタン達が反旗をひるがえしたら一大勢力になりかねない。

そう危機感を抱くようになってしまっていたのです。

そしてキリシタンを排除するべく、時代が動いていきました。

 追放処分を受けたが実は前田家にいた

天下人、豊臣秀吉はバテレン追放令を出します。

多くのキリシタンが信仰と地位や暮らしを天秤にかけて信仰を捨てる中、右近は領地もすべて捨てて信仰を守る事を選びました。

この判断に多くの人が驚きましたが、信仰の厚い右近には当然の選択だったのかもしれませんね。

ですがこの際、実はまだ右近は日本国内におり、各地を彷徨ったのちに前田家で客将として暮らしていました。

1590年(天正18年)の小田原征伐にも前田軍として従軍し、前田家の城の縄張りを任されるなど、その才能が認められており、右近がキリシタンである事を秀吉自身が黙認する形で国内で暮らしていたのです。

 多くの人に惜しまれながら国外追放に

しかし次の天下人、徳川家康が出したキリシタン国外追放令には、右近もどうしようもありませんでした。

信仰を捨てるか、日本を捨てるかの選択を迫られた右近は、迷う事なく再度信仰を守る事を選びます。

1614年(慶長19年)多くの人に引き留められ、惜しまれながらも右近はフィリピン・マニラ行きの船へと乗りました。

およそ1ヶ月の長旅を経てマニラに到着した右近を待っていたのはマニラの総督でした。

儀仗兵を伴って、右近一行を出迎えてくれたのです。

イエズス会や宣教師の報告でキリシタンとして有名となっていた右近には、スペイン国王の名において敬意を捧げられ、国賓に値する待遇が与えられました。

ですが、この時すでに60歳を越えていた右近に船での長旅と慣れない異国の地での生活は無理がありました。

1615年2月3日(慶長20年1月6日)に右近は息を引き取ります、享年63歳。

それはマニラに到着してわずか、40日後の事でした。

右近の死を嘆いた人々はマニラ全市を挙げて祈りを捧げ、葬儀は10日間もの間執り行われました。

こうして右近はたくさんの人に愛され、惜しまれながらもこの世を去ったのです。

高山右近はマニラで亡くなった?壮絶な人生を紹介まとめ

右近の歩んだ人生は、キリシタン大名と簡単に語るにはもったいないほど、壮絶なものだったのではないでしょうか。

ちなみに右近はキリシタン大名の他にも、利休七哲に数えられるほど高名な茶人でもありました。

信仰したものはキリスト教でしたが、茶道を愛する心は確かに日本人だったとうかがい知れますね。

参考文献

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