上杉鷹山(うえすぎようざん)という大名をご存知でしょうか?
次のような有名な和歌を残しています。
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」
現在の山形県にあった米沢藩の大名です。
江戸時代中期を代表する名君、あるいは日本を代表するリーダーとして、その名は海外にも知られています。
後述する通り、上杉氏は言わずと知れた名門ですが、鷹山が藩主になる頃の米沢藩は財政破綻寸前でした。
そんな米沢藩の危機を救ったことで、鷹山の名は今に伝わることになります。
今回は、そんな上杉鷹山の生涯と功績を見てみましょう。
なお、鷹山の本名は治憲(はるのり)ですが、晩年に名乗った鷹山の名が広く知られているため、ここでも鷹山に統一します。
上杉鷹山の生い立ち
上杉氏は、言うまでもなく、越後の龍と恐れられた上杉謙信の家系です。
ただし、謙信は長尾氏から養子として入りましたし、後継の景勝(かげかつ)も養子です。
さらに、今回取り上げる鷹山も養子なので、まずはこのあたりから整理しておきましょう。
実は上杉氏ではない?
鷹山は、現在の宮崎県にあった高鍋藩を治めていた秋月氏の出身です。
6代藩主の秋月種実(あきづきたねみつ)の次男であり、同時期の米沢藩を治めていたのが8代藩主の上杉重定(しげさだ)でした。
当時の重定に男子はなく、娘の婿養子にということで、上杉氏の一門に加わりました。
今で言うところの神童であったらしく、その点が決め手になったようです。
江戸時代の米沢藩
上杉氏がいくら名門であっても、財源の豊かさとは何の関係もありません。
上杉氏は、関ヶ原の戦いで西軍(敗軍)側を支持したため、家名は存続できたものの、領地は120万石から30万石に激減させられました。
それにもかかわらずリストラは行わず、何千人もの家臣団を維持したため、人件費が重くのしかかりました。
あの有名な上杉景勝・直江兼続(なおえかねつぐ)コンビの時代に殖産興業を進め、一時的に収入は増えたものの、長続きはしませんでした。
その後、さらに15万石に半減させられた上、養父の重定には浪費癖があり、一部の寵臣(ちょうしん)が無理な収入増も図ったため、米沢藩は血の粛清を伴う大混乱に陥りました。
何をやってもうまくいかないと、家臣たちが頭を抱える様子は、様々な記録に残されています。
鷹山が藩主になるまで
鷹山が藩主になったのは、まさに米沢藩の危急存亡の時代でした。
江戸時代も半ば頃になると、日本全国のあらゆる藩の財政が苦しくなり、領内の商人等から借り入れを行うのが常態化していました。
国債の発行額が膨らみ続けている現在の日本政府と同じです。
その中でも、米沢藩の危機が際立っていたのは、領内の商人等から見放され、借り入れがほぼ不可能になっていたからです。
ある有力商人は、挨拶等には出向くものの、借財の要請は断固拒否しています。
厳格な身分社会の江戸時代に、大名からの依頼を断固拒否するという姿勢を貫くのは、決して容易なことではありませんが、それだけ米沢藩は信用を失っていたということです。
これも現在に当てはめれば、国債の格付けが最低ランクになり、誰も買ってくれないことを意味します。
上杉鷹山はどんな人?
上杉鷹山がいかに神童だったとしても、米沢藩の立て直しには相当の覚悟が必要でした。
何しろ、鷹山は他家出身の養子でしたから、風当たりはことのほか強かったのです。
上杉鷹山の人となり
学問好きで政治への関心も高い鷹山が当主となり、米沢藩を心配するまじめな家臣たちは喜びましたが、快く思わない一派がいたのは、いつの時代も同じです。
鷹山が米沢藩に入るや、不穏な空気が流れ、今で言うところのサボタージュも横行したようです。
鷹山自身は穏やかな性格だったため、そうした状況に意地を張ることなく、当主の座を辞する覚悟まであったようですが、良識のある家臣たちが必死に説得したのです。
米沢藩の改革を決意するまで
名君としての上杉鷹山は、周囲の助けがなくては誕生しなかったでしょう。
前述した通り、鷹山を支持する良識的な家臣たちは、血の粛清もいとわず、反対派を一掃しました。
浪費癖のあった先代・重定も、思うところがあったのか、養子である鷹山を必死に応援したということです。
こうして、鷹山が藩政改革を断行する下地は整いました。
米沢藩はどうやってよみがえった?
上杉鷹山の米沢藩改革は、実は2期に分けられます。
鷹山の当主就任と同時に始まったのが第1期で、明和・安永の改革と呼ばれます。
そして、鷹山の隠居後に家臣団が中心となって改革を進めた時期が第2期で、寛政の改革と呼んでもよいのですが、江戸幕府の改革と区別するため、より細かく寛三の改革と呼ばれたりもします。
明和・安永の改革は、死者も出る血生臭い展開のため、あまり詳細に紹介されることはありませんが、ここでは特に区別せず、成果を上げた項目を中心に見てみましょう。
支出を徹底的に減らす
鷹山の改革に限らず、古今東西の改革に共通する第1歩は、支出を減らすことです。
鷹山が今でも尊敬されるのは、自身が徹底した倹約生活を送ったからです。
この点で、やはり名君と言われる徳川吉宗に似ています。
江戸屋敷での支出も徹底的に減らすなど、名門といえども体裁にこだわらない姿勢を貫き、身の丈に合った支出を追求しました。
江戸屋敷は首都の出先機関であり、対・幕府の陳情活動の最前線でもあったことから、いわば特別会計となっていたのです。
付加価値を生む
鷹山の改革が今でも学ばれるのは、収入を増やす努力も徹底して行い、現代でも学ぶべきところが多いからです。
たとえば、有名な殖産興業政策として、漆や青苧(あおそ)といった付加価値の高い作物の栽培奨励が挙げられます。
米沢藩には水田の適地も少なかったことから、稲作で収入増を図るには限界がありました。
そのため、少量でも高く売れる特産品を奨励しようということになったわけです。
すぐ近くの仙台藩は、実質的に100万石などと言われましたが、米に頼った財政だったために米価の影響をストレートに受けました。
それに比べれば、高付加価値作物は、毎年安定した収入に結び付くわけです。
教育に投資する
鷹山の改革で特筆されるのは人材育成です。
近年の研究では、鷹山自身が次々と新しいアイディアを生み出したと言うよりも、優秀な家臣たちの働きに負うところが大きいこともわかっています。
鷹山は、武士だけではなく、農民や町人にも学問を奨励し、官民団結して米沢藩の改革・運営に従事するという姿勢を徹底させました。
もっとも、農民や町人にも分け隔てなく学問を奨励したという話は、多かれ少なかれ江戸時代を通じて日本全国にあった話です。
むしろ、鷹山の人材活用術で注目すべきなのは、家臣団にも副業を奨励したことでしょう。
武士は武士としてふんぞり返るのではなく、きちんと生産性向上に貢献させたのです。
そうしなければやっていけないという事情があったわけですが、この事実は、後世に大きく評価される点になります。
アイディアを後世へ伝える
鷹山が徹底していたところは、一連の改革の効果を長続きさせる方策を練っていたことです。
鷹山の改革を端的に表す用語として、富国とともに用いられるのが風俗教化です。
教化という語句からわかると思いますが、これは望ましいマインドを持ってもらうよう、人々を教育することです。
そして、そうしたマインドを子々孫々伝えていくためには、教育内容をマニュアル化し、それに沿って教育する必要があります。
鷹山は、一時期廃校となっていた藩校・興譲館を復活させ、広く才能のある領民の子弟を学ばせました。
興譲館の名は、現在でも学校名として残り、地元の誇りを示す名となっています。
上杉鷹山が有名になるまで
一連の改革を見れば、上杉鷹山の評価・名声が高まるのは時間の問題だったでしょう。
しかし、鷹山の場合、同時代人、とりわけ江戸幕府の関係者からの評価も高く、リスペクトすらされていた点は特筆すべきです。
そのため、多くの書物で取り上げられることになり、明治維新以降は海外でも急速に知られるようになります。
同時代人たちからの称賛
鷹山の改革を特に称賛していたのが、江戸幕府老中の松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。
定信が進めた寛政の改革は、倹約による支出減と産業振興による収入増を並行させ、学問を奨励するといった方向性が、鷹山の改革とまるで同じでした。
影響を受けていたことは明らかで、定信は鷹山の死を非常に悲しんだと伝えられています。
また、鷹山の名声は、東北地方をはじめ、日本全国の藩に知れ渡っていました。
面白いのは、米沢藩のような改革を提案したところ、強く反対されたという話も多いことです。
やはり、リーダーの資質と官民一体となる姿勢がカギとなるようです。
死後ますます高まった名声
鷹山の名声は、明治維新以降、ますます高まりました。
現在の道徳に当たる修身という科目で鷹山が取り上げられたこともあり、鷹山の名は庶民の間にも知られます。
明治時代の富国強兵政策と、鷹山の改革姿勢は親和的だったのだろうと指摘されています。
そして、内村鑑三(うちむらかんぞう)や新渡戸稲造(にとべいなぞう)といった、明治時代の国際派文化人の著作を通じ、鷹山の名は海外にも伝わります。
とりわけ、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、尊敬する日本人として鷹山の名を挙げていました。
英雄は英雄を知るという真実に国境はないということですね。
上杉鷹山ってどんな人?まとめ
上杉鷹山の時代は、上下関係を重んじる儒教全盛の時代でした。
そのため、統治者の命令を謹んで実行するという姿勢が民衆にもなければ、鷹山の改革が成功しなかったことは間違いありません。
しかし、鷹山の改革が、現代の国家・組織の改革に多くを教えてくれることも事実です。
近年、多様性(ダイバーシティ)を認めることの具体的効果が注目を集めています。
多様な人材を交流させることで組織が活性化し、思いもよらないアイディアが生まれ、イノベーションが誘発されるというわけです。
米沢藩は、いわば上杉鷹山という新風を吹き入れ、身分を問わず交流し、仕事に勤しむことでよみがえったと言えます。
少し触れましたが、当初の鷹山は招かれざる客であり、誹謗中傷もすごかったようです。
そうした困難を周囲の協力も得て克服した鷹山の生涯は、現代人にも多くの励ましを与えてくれます。
【参考文献・参考サイト】
小関悠一郎『上杉鷹山 「富国安民」の政治』岩波新書、2021年
石塚光政「上杉鷹山の藩経営における倫理観の研究」『日本経営倫理学会誌』11所収、2004年
角屋由美子「上杉鷹山とリスク管理」『安全工学』 51(4)所収、2012年
大矢野栄次「米沢藩の財政改革と上杉鷹山」『経済社会研究』58(1-2)所収、2018年