俳句に興味がない、あるいは古典が大嫌いという人でも、松尾芭蕉(まつおばしょう)の名はご存知でしょう。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」
時間の永遠性を表現したこの超名文は、芭蕉の傑作『おくのほそ道』の冒頭として、古典の教科書でほぼ必ず紹介されます。
言わば日本の古典文学を代表する文化人で、俳句を芸術に押し上げた立役者として「俳聖」と称されます。
そんな芭蕉には、実は忍者だったなどというオカルト的都市伝説も付いて回り、俳句に興味がない人にとっても、実は興味の尽きない人物なのです。
今回は、そんな芭蕉の生涯と功績を掘り下げてみましょう。
松尾芭蕉の生い立ち
松尾芭蕉と聞くと、俳句を詠んだ人、あるいは紀行作家くらいのイメージしかない人も多いでしょう。
芭蕉の生い立ちを詳しく見ると、別の魅力にも気付きますので、まずはそこから話を始めましょう。
生まれたのは忍者の里
芭蕉を江戸の町人出身だと勘違いする人がいて、筆者も苦笑したことがあります。
芭蕉が生まれたのは、現在の三重県の一部に当たる伊賀国(いがのくに)で、忍者の里として有名な地域です。
つまり、芭蕉を忍者だとする都市伝説は、芭蕉の出身地も1つの根拠としています。
家系や身分をめぐって
芭蕉の家系は伊賀土着の豪族で、江戸時代には当地を治めていた藤堂家に仕えていました。
つまり、松尾家は下級武士ながらも立派な武家であり、芭蕉自身も藤堂家の若君の小姓(こしょう)に抜擢されました。
頭が良かったからだと言われています。
実家が伊賀の豪族ということで、戦国時代には忍者を輩出した家柄ではないかとする憶測も、芭蕉忍者説の根拠です。
どんな教育を受けた?
芭蕉の地頭(じあたま)が良かったのはその通りですが、教育の影響もあったでしょう。
藤堂家は学問の振興に熱心で、俳句等の文芸の発展にも力を注いでいました。
芭蕉の父親も教育熱心であったため、才能が花開いたというわけです。
芭蕉と聞くと、日本の古典における神様というイメージが強いですが、中国の古典、つまり漢文の素養も素晴らしかったようで、冒頭で紹介した超名文も、実は漢詩の影響を受けたものと言われています。
俳聖・松尾芭蕉の誕生
松尾芭蕉の生涯には、いくつかの危機がありました。
ところが、芭蕉自身は、そうした危機を一流俳諧師として名を成すチャンスと捉えていた節があります。
芭蕉は、どうやら自分を売り込むことがうまかったようなのです。
江戸に出るまで
芭蕉にとっての第1の危機は、仕えていた藤堂家の若君が亡くなったことです。
芭蕉が23歳の時で、思うところがあったのか、後継の弟への仕官は辞退しています。
その後、何年かして江戸へ旅立つのですが、どうやら俳句の修練に専念したようです。
その間に、芭蕉にとって初めてとなる句集を出版した事実を見ても、武士の道にはほとんど未練がなかったはずです。
ただし、藤堂家の関係者はじめ、伊賀の人々とは、生涯にわたって良好な関係を保ちました。
江戸での生活と名声の高まり
芭蕉は30歳の頃までに江戸へ出たようですが、前述した句集の出版も、それへの準備だったと言われます。
つまり、自分は立派な俳諧師であるという名刺みたいな位置付けで、もくろみ通りと言うべきか、江戸では大変厚遇されたようです。
しばらくは藤堂家のあっせんで土木工事の現場監督の仕事をしていたのですが、それもいつしか辞め、1町人のような境遇となります。
これが第2の危機なのですが、芭蕉はポジティブでした。
実は、前述した句集のおかげもあって、俳諧師としての芭蕉の名声は高まっており、いろいろ援助してくれるパトロンができ、働かなくても生活には困らなかったと言われます。
流行作家の先駆けですね。
『おくのほそ道』を味わおう
江戸で不自由ない(?)生活を送っていた芭蕉ですが、45歳の頃、突如旅に出ます。
それこそが『おくのほそ道』を生んだ東北・北陸地方への大旅行です。
今でも東北地方では、芭蕉の名を冠した公共施設があるほどの有名人です。
芭蕉の代名詞みたいな名句の数々も、この旅の中で詠まれました。
今回は、そんな『おくのほそ道』を、いつもとは違う角度で味わってみましょう。
自由な旅行が許された背景
第1に、そもそも芭蕉に大旅行が許された経緯が気になります。
当時は身分や居住地がほぼ固定された江戸時代であり、庶民の自由な旅行など不可能な時代です。
ここにも、芭蕉忍者説の根拠があります。
つまり、芭蕉は幕府からの密命を帯び、東北地方の大名家の動きを探る隠密(おんみつ)だったからこそ、自由に関所も通過できたという主張です。
しかし、芭蕉はすでに有名人であり、筆者とすれば、世間の注目を集める有名人を隠密に使うかという疑問があります。
むしろ通説通り、500回忌を迎えた平安時代の歌人・西行(さいぎょう)を偲ぶ旅という名目の方が納得できるでしょう。
ガイドブックとして読む
芭蕉は東北地方で有名だと述べましたが、『おくのほそ道』には300年以上前の東北地方が生き生きと描かれています。
特に、現在の秋田県にかほ市にある象潟(きさかた)の描写は、地盤隆起や干拓で入り江が消滅する前の多島海の光景を伝えています。
逆に、松島(宮城県)や平泉(岩手県)、山寺(山形県)など、現在でもその名を知られる有名観光地も登場し、300年以上前の人物にもかかわらず、どことなく親近感を覚えます。
平泉では「夏草や兵どもが夢のあと」という名句を残していますが、ここでの兵(つわもの)とは、かつて栄華を極めた奥州藤原氏を中心とする武将たちです。
平安時代から鎌倉時代にかけての東北地方の日本史が、江戸時代にも正確に知られていたことがわかります。
このように、句集としてだけではなく、ガイドブックとしての楽しみ方もあり、ソロ旅なんかをする機会があれば、ぜひ一読をお勧めします。
江戸時代の庶民は文化的?
先ほど、日本史が正確に知られていたことに驚きましたが、実は江戸時代の日本人の教育レベルは高かったと言われています。
これは決して手前味噌ではなく、たとえば庶民も数学(日本のものは和算と呼ばれます)の勉強に精を出していたことは、世界的にも驚かれる事実です。
俳句をはじめとする文芸の世界も同様で、芭蕉が旅の先々で熱烈に歓迎されたのも、俳句が庶民にも広まった大衆芸術だったからです。
考えてみれば、江戸での芭蕉が真剣に働かなくても暮らせたのは、俳句を愛し、芭蕉をリスペクトする有力者がいたからです。
このように、『おくのほそ道』を読むだけで、江戸時代の日本を見直す1つのきっかけになります。
芭蕉忍者説の根拠として
最後に、『おくのほそ道』が芭蕉忍者説の有力根拠とされることにも触れておきましょう。
もし『おくのほそ道』での行程が事実だとすれば、芭蕉はとんでもなく健脚で、忍者でもない限り、江戸時代のアラフィフ男性には無理だと言うわけです。
しかし、近年の学術的研究によれば、芭蕉が異常に健脚だったわけではないことも明らかにされています。
同行者の曾良(そら)の日記もあわせて分析すれば、特に不自然ということもなく、『おくのほそ道』にオカルト的解釈を施した昭和の都市伝説にすぎないということです。
松尾芭蕉の何がすごい?
古典の教科書にも出てくるくらいですから、松尾芭蕉がすごい人であることに疑いを挟む余地はないとも言えます。
しかし、良く言えば称賛の裏返し、悪く言えば嫉妬みたいな感情を抱く人たちもいました。
今回は最後に、芭蕉の何がすごいのかを確認しておきましょう。
俳句は日本を代表する芸術
俳句は、今でこそ日本を代表する芸術ですが、芭蕉が生まれた頃はそれほどでもなかったのです。
高尚な文芸と言えば何と言っても和歌であり、俳句は和歌から派生した言葉遊びにすぎないと見られていたのです。
そんな俳句に芸術性を付与したのが芭蕉であり、芭蕉の弟子たちは蕉門(しょうもん)と呼ばれます。
ちなみに、明治時代の正岡子規は芭蕉の俳句をこきおろしていますが、それは乗り越えられない壁としての芭蕉に対するリスペクトだと言われています。
逆境を乗り越える力
芭蕉のすごさは、俳句にのみあったのではありません。
数々の逆境にもめげず、むしろ逆手にとって成功に変えてきた、その強い精神力やしたたかさも魅力の1つです。
すでに見ましたが、武士から俳諧師への転職や、江戸に出る前の句集の出版、江戸での流行作家への出世、自由な旅行など、はっきり言えば芭蕉の生涯はうらやましいものです。
やはり、この点を指摘した近代の作家がいて、それこそ芥川龍之介です。
明治・大正時代の日本では、作家というのはまともな職業と見てもらえず、非常に貧しい生活を強いられていましたから、かなりうらやましかったに違いありません。
身分制度などは厳しかったわけですが、江戸時代の一種の大らかさを見て取れます。
松尾芭蕉って、どんな人?・まとめ
今回は、俳句の芸術性から離れ、松尾芭蕉自身に注目してみました。
芭蕉の句集や紀行文は『おくのほそ道』以外にもあり、今でも手に入ります。
すでに指摘しましたが、『おくのほそ道』を読むだけでも、江戸時代の日本に一種のロマンを感じてしまいます。
教科書だけで歴史を勉強すると、どうしても前近代的で、人権もなかった暗い時代と一方的に捉えがちです。
つまり、古典を勉強する意義は、昔の人も精一杯生き、その中で芸術も生まれていたことを確認できる点にこそあります。
【参考文献・参考サイト】
松尾芭蕉(萩原恭男校注)『おくのほそ道』岩波文庫、1957年
北村純一『伊賀の人・松尾芭蕉』文春新書、2022年
黄佳慧「松尾芭蕉の俳諧思考法 発句の革新過程と宋代文学」『日本語日本文學』42所収、2014年
恒松侃「曽良随行日記から眺める松尾芭蕉おくのほそ道」『あいち国文』10所収、2016年
谷釜尋徳「松尾芭蕉の歩行能力の検証『曾良旅日記』の分析を中心として」『体育学研究』66所収、2021年