直江兼続のエピソードと人物像をご紹介!!義を重んじるは謙信譲り!

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直江兼続(なおえかねつぐ)という武将をご存知でしょうか?

愛の文字が飾られた甲冑と言えば、ピンとくる人も多いかもしれません。

直江兼続は幼少期から上杉景勝(かげかつ)に仕え、まるで兄弟のように成長したといいます。

その忠臣ぶりは豊臣秀吉が羨ましがるほどだったといいます。

直江兼続のエピソードを紐解けば、彼の性格や信条が理解できます。

今回、直江兼続のエピソードをご紹介し、直江兼続という武将を知っていただく一助になればと思います。

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目次

直江兼続の性格がわかるエピソード

直江兼続は主君の上杉景勝にとって有能な忠臣だっただけでなく、ユニークな性格も持ち合わせています。

しかも、家臣として幼少期から兄弟のような関係性だったということも珍しく、個性的といえます。

仮に子供のときに主君とともに遊び学んだというところまではあったとしても、その後も良好な主従関係を保って2頭体制の片翼を任されるということは稀有なことでした。

越中を平定した上杉謙信の死後、後継者争いが起こったときに景勝が跡目を継げたのは直江兼続のサポートのおかげだったといいます。

上杉謙信との直接的な繋がりは薄いですが、直江兼続が忠義に厚い変わり者だったのは、ひょっとすると上杉謙信譲りだったのかもしれません。

この章では、直江兼続がどのような人物だったのか、その性格がわかるエピソードをご紹介してまいります。

幼少期の逸話

長尾政景(ながおまさかげ)の家臣・樋口兼豊(ひぐちかねとも)の子として生まれた直江兼続は、幼少の頃から5歳年上の上杉景勝に仕えました。

その関係性は、主従というよりは本物の兄弟のように、ともに遊び、学びながら成長したといいます。

幼少期から続いていた主従関係だったからこそ、上杉景勝は直江兼続の能力や性格をよく把握していたので重要な役割を任せることができたのでしょう。

直江兼続は目鼻立ちの整った美少年で、その美貌が上杉景勝の目に止まったともいわれています。

直江兼続を寵愛した上杉景勝は、兼続に家老職を任せようとしたところ出自の低さを理由に反対されたため、後継者のいなかった直江家の養子にし、家老として迎え入れたと言われています。

それからというもの直江兼続は側近として上杉景勝と2人3脚の体制を取ったとのことです。

直江兼続が当時どのようなポジションにいたかというと、上杉一門が敬語を使うほどだったといいます。

実際に、上杉景勝の妹婿が直江兼続に宛てた手紙には、目上の人に使うべき表現が使用されていたということです。

ちなみに、上杉家では上杉景勝のことを御屋形様(おやかたさま)、直江兼続のことを旦那様(だんなさま)と呼んでいたそうです。

閻魔大王に手紙を送った!?

直江兼続にはこんなユニークなエピソードがあります。

あるとき家臣の三宝寺勝蔵が下人を成敗しましたが、その罪は斬るほどのものではありませんでした。

そのため下人の親族たちが激怒し、直江兼続のところに押しかけました。

そして、「死んだ者を元通りにして返してほしい」と訴えました。

直江兼続が聞き取りを行なったところ、三宝寺勝蔵が軽率だったということがわかりました。

かといって死者を生き返らせることなどできません。そこで直江兼続は下人の親族たちに銀20枚を与えて慰めましたが、彼らは納得しませんでした。

そこで直江兼続はこう言いました。

「それほど言うなら、冥土から呼び戻してやろう。だが、あいにく冥土へ呼びに行く者がいない。死者の兄と伯父、甥の3人を閻魔の庁へ送ってやるから、連れてくるがよい」

そして兼続はその3人を捕らえて成敗してしまい、閻魔大王宛てに次のような立て札を立てたのでした。

「三宝寺勝蔵の家来が不慮の死を遂げたところ、親類の者たちが嘆き、呼び返してほしいとのことなので、この3人を迎えにつかわす。何卒、死者をお返しくださるようお願い申し上げる」

どこまで本気かはわからないが、あの世に手紙を書く武将など珍しく、並みの武将ではなかったのではないでしょうか。

豊臣秀吉時代の直江兼続

戦国の争乱が終わりに近づいていたころ、織田信長の後継者として豊臣秀吉が台頭しました。

当然上杉家も無関心ではいられず、上杉景勝と直江兼続は、上杉家の存続の道を模索していくことになります。

そんな中、豊臣秀吉は直江兼続の忠臣ぶりを見て「自分の家臣にしたい」と言ったといいます。

この章では、豊臣秀吉政権下での直江兼続の有能ぶりと、秀吉にいかに可愛がられていたかというエピソードをご紹介します。

秀吉が欲しがるほどの忠臣

豊臣秀吉が、直江兼続の忠誠心などを見て、天下執柄の器量人と評し「自分の家臣にしたい」と言ったということは有名です。

直江兼続が豊臣秀吉にどのくらい認められていたかというエピソードがあります。

1588年、直江兼続は従五位下に叙任され、豊臣の姓を賜ったとされています。

直江兼続が28歳のときでした。

この待遇は当時でも珍しいものでした。

家来の家来のことを陪臣といいますが、陪臣に対する扱いとしては破格の待遇だったのです。

豊臣秀吉は「陪臣で天下の政治を任せられるのは直江兼続を入れて数名だけだ」といったと伝えられています。

新発田重家の乱

直江兼続が合戦上手と言われるようになったのは、新発田重家(しばたしげいえ)の乱での活躍が大きいです。

新発田重家

上杉景勝が1583年に新発田重家討伐のために兵を出したとき、指揮を取ったのが24歳のときの直江兼続でした。

直江兼続は、新発田城と梶の砦との間に兵を展開させるという作戦に出ました。

しかも自ら兵を率いて砦の東方に潜み、南北の2方はあえてあけ、遥か遠くに軍勢を隠しておくという作戦を取りました。そして、砦の西方に広がる枯れ草に火を放ったのです。

砦から新発田勢が出動しましたが、西側にも南北にも敵の姿が見えません。そこで東側に出たところ、直江兼続の軍勢が姿を現して不意をつきました。

新発田勢が慌てて逃げたところに、直江兼続が配置しておいた伏兵が攻撃を仕掛けました。彼らは新発田兵を次々と討ち取り、その数は3百にのぼったといいます。

このような誘導作戦で勝利した直江兼続は、これを機に合戦上手の名将として認知されるようになったのでした。

徳川家康と対立!

豊臣秀吉政権下では五大老の地位についていた上杉家でしたが、豊臣秀吉が亡くなり前田利家も亡くなると、徳川家康が影響力を増してきました。

豊臣秀吉体制時には自ら傘下に入った直江兼続でしたが、徳川家康に対しては争う構えでした。

直江状でケンカを売り、関ヶ原の合戦では石田三成と手を組んで徳川家康を挟み打ちにしようとしました。

それでも徳川家康が上杉家を滅ぼさなかったのは、直江兼続の能力と人柄を買ってのことだったのではないでしょうか。

直江状

1599年、勢力を伸ばしていた徳川家康は、前田利長に謀反の疑いがあるとして、上洛して申し開きをするように命じました。

事実無根の言いがかりでしたが、前田利長は争いを選ばず、徳川家康に降伏して実母の芳春院を人質に差し出しました。

次に目をつけたのが、同じく五大老を担う上杉家でした。

徳川家康は全く同じ手段で上杉家を従えようとしましたが、直江兼続は直江状を送り、ケンカを売りました。

直江状とは、直江兼続が徳川家康に宛てた、家康の無法ぶりを理路整然と批難した手紙のことです。

徳川家康はこれに激怒したといい、関ヶ原の合戦は直江兼続が引き起こしたものだと言われてすらいます。

関ヶ原の戦い

直江兼続は、関ヶ原の戦いで石田三成に与して義軍(西軍)を結成し、徳川家康に敵対しました。

戦略的には、直江兼続は石田三成と徳川家康の挟み打ちを図りました。

結局、徳川家康が勝利しました。

というのも、会津討伐に出た徳川家康が関ヶ原に兵を進めたとき、上杉景勝は追撃をできる優位な位置関係だったにもかかわらず、軍を動かさなかったといいます。

一説によると、直江兼続は追撃を主張したのですが、上杉景勝が豊臣秀吉との約束である「私闘をしない」という誓いを守り、相手が攻めてこないのに攻撃するのは約束に反すると主張したからだと言われています。

しかし別の説では、石田三成との挟撃作戦を示し合わせていた上杉軍は、追う方が有利な追撃戦を行ないたかったけれども更に後方の伊達政宗の動向が気になって追撃できなかったというものもあります。

西軍が関ヶ原の合戦に敗れた後、石田三成の遺児が米沢に逃れてきたときは上杉家取り潰しを覚悟してまで匿いました。

徳川家康政権下の直江兼続

関ヶ原の戦いの徳川家康軍勝利の報せを聞き、上杉景勝と直江兼続は上洛して謝罪することを決意しました。

上杉景勝と直江兼続は、結城秀康や本多正信、榊原康政らを頼って伏見城の徳川家康に詫びました。領地は激減したものの、上杉家滅亡は免れました。

関ヶ原の戦いで徳川軍を追撃しなかったことで、徳川家康に敵対する意志はなかったと判断されて助かったとも言われています。

また、直江兼続は領地を90万石減らされたといい、そのうち60万石は蒲生氏郷の息子である秀行のものになりました。

その後も上杉景勝と直江兼続は徳川政権のもとで重用され、大阪冬の陣では家康の命により5千もの兵を率いて参加しました。

彼らは佐竹軍らとともに、1万ほどの豊臣軍と激戦を繰り広げたといいます。

直江兼続はそのとき鉄砲隊を指揮して武功を挙げ、上杉景勝には徳川家康から感謝状が送られたとのことでした。

直江兼続のエピソードと人物像をご紹介!!義を重んじるは謙信譲り!?まとめ

以上が、直江兼続のエピソードでした。

エピソードを見る限り、直江兼続は有能な忠臣であり、変わった性格の武将でもあったようです。

直江兼続は上杉家の家臣でしたから、義を重んじる変わり者という点は、上杉謙信譲りだったのかもしれません。

武将のエピソードというものはその人物の能力や性格を映すものですから、様々な武将のエピソードに注目するのも面白いかもしれませんね。

【参考文献・参考サイト】

『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房

『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社

『直江兼続の性格や面白い逸話(エピソード)は?』織田NOBU株式会社

https://odanobu.com/article/64/

『直江兼続の名言・逸話31選』戦国ヒストリー

https://sengoku-his.com/310

『直江兼続の歴史』刀剣ワールド

https://www.touken-world.jp/tips/34217/

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