小早川隆景って何をした人?その生涯や功績を解説!

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戦国時代に活躍した小早川隆景という戦国武将を知っていますか。

小早川隆景は、戦国時代に中国地方の覇者として君臨した父・毛利元就の偉業を助け、父の死後も織田家や豊臣家といった強大な相手に対してうまく立ち回りながら毛利本家の存続に貢献しました。

また、その毛利元就が遺した「三本の矢」の逸話に、毛利元就の長男・毛利隆元、次男・吉川元春とともに登場する人物としても知られています。

今回は、小早川隆景がどのような人物だったのか、その生涯や功績について解説したいと思います。

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目次

戦国大名毛利氏を支えた智将

小早川隆景は、兄にあたる吉川元春とともに毛利家を支えた戦国武将ですが、天下人となった豊臣秀吉や、その軍師・黒田官兵衛などからも智将と称えられ重用されました。

父・毛利元就に従って各地を転戦し、その偉業に貢献したことはもちろんですが、その後を継いだ兄・毛利隆元や幼くして当主となった甥・毛利輝元に仕えた際には、毛利本家がたびたび直面した重大な局面において、その智謀をもって、毛利家存続のために舵取りをしていったのでした。

小早川隆景の生涯

小早川隆景は毛利本家を支えた戦国武将ですが、元々は毛利家で生まれた人物です。

どのような経緯があり小早川隆景と名乗るようになったのか、経緯と合わせてその生涯を詳しく見ていきたいと思います。

小早川隆景の生い立ち

小早川隆景は、1533年(天文2年)安芸国の戦国武将毛利元就の三男として生まれ、幼名は徳寿丸といい、長兄は隆元で10歳年上、次兄は元春で3歳年上でした。

当時、父・毛利元就は安芸国の国人領主に過ぎず、大内や尼子といった強力な戦国大名の間に挟まれ、生き残るために苦心をしていた頃でした。

父・毛利元就が毛利家の生き残りをかけた戦略の中で、隆景自身もその影響を受けることになるのです。

小早川家への養子

1544年(天文13年)に、同じ安芸国の国人領主である竹原小早川家の当主・興景が病没してしまいます。

小早川家には後継ぎがいなかったため、小早川の家臣達は他家から養子を迎え入れることにします。

そこで、白羽の矢が立ったのが、当時12歳であった徳寿丸(のちの小早川隆景)でした。

小早川家や毛利家の主筋にあたる大内義隆が小早川家の養子に隆景を推挙していたようですが、実のところは、安芸国で勢力拡大を図る小早川隆景の父・毛利元就が大内義隆に対して裏で働きがけをしていたともいわれています。

毛利両川体制

小早川隆景は、若くして小早川家を継ぐこととなりますが、強力な水軍を擁し、瀬戸内海における軍事面や物流面での支配を着実に進めていきます。

父・毛利元就が大内氏などの諸勢力を撃破し、中国地方における支配を拡大していく中、小早川隆景も数々の戦いで重要な役割を担い、毛利本家を支えていくこととなるのです。

1571年(元亀2年)に毛利元就が逝去した後は、本格的に次兄・吉川元春とともに、元就の跡を継いだ毛利輝元(元就の孫)を支えました。

小早川隆景、吉川元春と名字に「川」が入っていたことから、これを「両川体制」と後に呼ばれることになります。

この体制によって、毛利家は、出雲の尼子氏や九州の大友氏と戦い、毛利家の勢力は中国地方だけでなく、九州北部まで及び、戦国大名としての支配を盤石なものとしていき、さらには織田信長や豊臣秀吉と渡り合いながら、戦国時代を巧みに生き抜いていったのでした。

毛利本家を守るための決断

小早川隆景は、豊臣政権下での毛利家後継問題において、その才覚を十分に発揮し、毛利家存続の危機を救ったといわれています。

子宝に恵まれなかった天下人・豊臣秀吉は、甥である豊臣秀次や羽柴秀俊(のちの小早川秀秋)を後継者として育てていました。

しかし、1593年(文禄2年)に実子となる豊臣秀頼が生まれると、1595年(文禄4年)には秀次の切腹事件などがあり、豊臣家の後継者問題が混迷を極めます。

すると、当時同様に子がなかった毛利輝元に、秀吉の甥である羽柴秀俊を養子という話が持ち上がりました。

毛利本家に豊臣家の血が入ることを恐れた小早川隆景は、自分にも子がいなかったこともあり、羽柴秀俊を小早川家の養子として迎えたいと申し出ることにしたのです。

小早川家の養子となった秀俊は、名を秀秋と改め、小早川隆景の跡を継ぎ、小早川家を当主になります。

そして、1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いでは当初、西軍に属して参戦しますが、徳川家康率いる東軍側に内通して勝利をもたらします。

しかしながら、関ヶ原の戦いの2年後に亡くなってしまい、毛利本家を支えてきた名門・小早川家は断絶となってしまうのです。

小早川家自体は断絶してしまいますが、小早川隆景が「すべては毛利本家のために」という思いで判断したことが、毛利家存続に繋がったのではないでしょうか。

小早川隆景の功績

小早川隆景は、毛利本家に従って戦いに臨むことがほとんどでしたが、数ある戦いの中でも、大きな役割を果たした戦いについて、いくつか紹介したいと思います。

厳島の戦い

毛利家の大きな転機となった事件の1つとして、厳島の戦いが挙げられます。

毛利家と主従関係にあった大内氏の当主・大内義隆が、1551年(天文20年)に家臣の陶晴賢に殺害をされたことにより、大内義隆の弔い合戦と称して毛利元就は、陶晴賢にはんきを翻します。

毛利軍は、陶軍に比べると圧倒的に少ない兵力だったため、謀略によって厳島という狭い戦場に陶軍を誘い出し、陶軍が上陸した後、厳島の周囲を毛利軍が密かに囲んで奇襲殲滅する作戦をとります。

そして、毛利側の諜報戦が功を奏し、1555年(弘治元年)年10月1日、毛利軍と陶軍はついに厳島にて激突しました。

東側からは毛利元就を総大将に長男・毛利隆元と次男・吉川元春が、西側からは三男・小早川隆景の軍が厳島にある宮尾城を占拠した陶軍を挟み撃ちにし、陶晴賢を討ち取ることになります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

この厳島の戦いは、後に桶狭間の戦いと並んで「日本三大奇襲戦」に数えられるほど鮮烈な戦いとなりました。

実は、ここで最も効果的な働きをしたのが小早川隆景と言われています。

小早川家はもともと水軍を持っていましたが、強大な陶軍に立ち向かうために瀬戸内の制海権を握り、強力な海賊衆を抱えている村上水軍を味方につけようと調略に奔走しました。

その結果、軍船300隻を借りることができ、奇襲成功の要因となった海上封鎖に成功し、陶軍を厳島に閉じ込め壊滅させるという大手柄を立てたのです。

備中高松城の戦い

中国地方の覇者となった毛利家は、破竹の勢いで上洛を果し勢力を急拡大していた織田信長と対峙することになります。

毛利家をはじめ、各国の諸大名を中心に狼煙を上げた反信長包囲網は、朝廷による仲介や上杉謙信の死などによって、徐々に勢力が衰えていきました。

しかし、織田信長は配下の羽柴秀吉に中国地方制圧を命じたため、毛利領内には次々と織田の軍勢が押し寄せてくるようになりました。

毛利対織田の戦いが、各地で一進一退の攻防が続く中、最大の戦となったのは、1582年(天正10年)の備中高松城の戦いです。

毛利方についた備中高松城城主・清水宗治を助けるため、毛利輝元をはじめ、吉川元春、小早川隆景も3万の大軍を率いて出陣しますが、戦いの途中、明智光秀によって本能寺の変で織田信長が亡くなります。

主の死を密かに知った羽柴秀吉は、毛利家に和睦を提案し、明智光秀を討伐すべく、有名な「中国大返し」を敢行します。

この和議が成立した後、「信長死す」の知らせを受けた吉川元春は、秀吉軍を追撃することを主張しましたが、小早川隆景が秀吉軍に勢いがあることを察し、これを制止します。

それだけではなく、秀吉に毛利の軍旗まで貸し与えて、秀吉の光秀討伐を手助けしたのでした。

小早川隆景の機転により、羽柴秀吉からの信頼を置かれるようになり、豊臣政権の中でも毛利家は重要な役割を担い、存続していくことに繋がるのでした。

小早川隆景の人となり

ここまでは、小早川隆景が毛利家の拡大や存続にあたって、大きな役割を果たしてきたことが分かったと思いますが、次は、小早川隆景の人となりを表すエピソードを紹介していきたいと思います。

先見の明

小早川隆景は、幼少のころから卓越した才能をもっていたようです。

小早川隆景が子供の頃、毛利氏はまだ小さい国人領主に過ぎず、中国地方で大きな勢力をもっていた大内義隆に従属していました。

そのため、小早川隆景も人質として大内氏の元で過ごしていましたが、父・毛利元就の元に帰ってきたときに、「大内家は滅亡するでしょう。重臣陶隆房(のちの陶晴賢)の諫言を用いないばかりか、寵臣の相良武任のいうことばかりを聞いています」と分析しています。

数年後実際に大内家は滅んでしまいます。

小早川隆景が、優れた分析力と先見の明があったことが分かるエピソードの1つではないでしょうか。

近世日本の賢人

小早川隆景は、毛利本家とともに、豊臣秀吉の天下取りに積極的に協力し、四国攻めや九州攻めにおいて戦功を立てることで秀吉からの信頼を確固たるものにしました。

豊臣秀吉も小早川隆景の才能を見抜き、四国攻めで得た伊予国を隆景に与えて、秀吉直属の独立大名にしようと画策します。

しかし、小早川隆景はあくまで毛利家の家臣であるという立場をわきまえ、褒美をまずは自らの主君である毛利輝元に賜るよう懇願したといいます。

このように、毛利本家を一番に考え、深謀遠慮で忠節を尽くす小早川隆景のことを、豊臣秀吉は高く評価していました。

「日本の西は小早川隆景に任せれば安泰である」と評していただけではなく、小早川隆景が逝去した際、その知らせを聞くと、「近世日本の賢人であった。日本を治めたとしてもなお余りある才知の人だった」とその死を嘆いています。

天下人からも「日本一の賢人」という最大級の賛辞を受けていたことからも、小早川隆景の偉大さが窺い知れます。

小早川隆景って何をした人?生涯や功績を解説!まとめ

小早川隆景は、時流を見極めて行動することができる非常に有能な戦国武将であったと思います。

豊臣秀吉からも高い評価を受けているように、天下を狙うことができるほどの人物であったように思えます。

自分の野心ではなく、あくまで父・元就の遺訓を忠実に守り、「毛利家のために何をすればよいのか」を第一に考え、忠義を尽くしたところに他の戦国武将にはない魅力を感じる人も多いのではないでしょうか。

【参考文献・参考サイト】

『小早川隆景・秀秋』著:光成準治 ミネルヴァ書房

『影の宰相 小早川隆景』著:米山俊哉 南々社

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