今回取り上げる吉良義央(きらよしなか)は、江戸幕府に仕えた幕臣で、朝廷の官職名から上野介(こうずけのすけ)の通称で知られています。
そんな義央の名が今日まで知られるきっかけとなったのが、元禄赤穂事件です。
現在の兵庫県にあった赤穂藩の藩主で、こちらも朝廷の官職名から内匠頭(たくみのかみ)の通称で知られる浅野長矩(あさのながのり)といさかいを起こし、長矩だけが切腹となったことに抗議した赤穂浪士たちに義央が殺害された事件です。
この事件を題材とした忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の戯曲名の方が知られています。
テレビ時代劇が盛んに作られた2000年代前半までは、定番の題材でした。
今回は、忠臣蔵のフィクション性に惑わされずに、吉良義央の生涯を客観的に見てみましょう。
吉良義央の生い立ち
吉良義央と聞くと、意地悪じいさんのイメージがありますよね。
イメージについては後ほど見るとして、ここでは家柄と生い立ちを見ておきましょう。
吉良氏のルーツ
吉良氏のルーツをたどると、鎌倉幕府の重臣・足利義氏(よしうじ)に行き着きます。
義氏は、室町幕府を開いた足利尊氏(たかうじ)の5代前の足利家当主です。
義氏の子・長氏(おさうじ)が、現在の愛知県にあった領地の地名をとって吉良氏を名乗ったのが始まりです。
ですから、足利将軍家とは関係の深い親戚筋であり、吉良氏は将軍職を継ぐ資格もあると見られた超名門です。
高家(こうけ)とは?
吉良氏が超名門であったことは、江戸時代になっても役立つことになります。
江戸幕府を開いた徳川家康が、もともと松平姓であったことは有名ですが、松平氏とはどんな一族なのか、実は不明な部分が多いのです。
家柄がはっきりしないと、家柄をとても重視する京都の朝廷から見下され、様々な交渉で不利になります。
そこで江戸幕府では、名門の一族を高家という役職に就け、朝廷との交渉やその接待、あるいは寺社への参詣などを行わせました。
吉良氏も高家に任じられたのですが、有名なところでは今川氏や大友氏も高家に列しています。
このような経緯で、義央も吉良氏の当主として、高家の職務を務めることになります。
吉良義央はどんな性格?
吉良氏が超名門の武家となると、義央を意地悪じいさんと見るイメージに拍車をかけそうです。
確かに、義央の評判は昔からかんばしくないのですが、まずは残された記録を整理してみましょう。
吉良義央の仕事ぶり
義央は、前述した吉良氏発祥の地を含め、いくつかの領地を与えられていました。
領民の評判もさぞかし悪かったと思われがちですが、領民の評判は決して悪くなく、むしろ名君とも評されました。
ただし、実際に領地を治めたのは代官であり、義央自身がこまめに視察したわけではないので、名君の評価は伝聞によるものと言えます。
他方、本業である高家の仕事における幕府内での信頼は高いものでした。
もちろん、仕事ができることと人格が優れていることは別次元の話です。
義央の場合も、他の幕臣や大名とのトラブルは多く伝わっています。
吉良義央のプライベート
吉良義央を一方的に嫌うのはアンフェアですが、とっつきにくい人だったことは確かなようです。
悪評は様々な文献に記されている一方で、誉め言葉は領地での言い伝えのほか、朝廷の公家の記録などに登場するくらいだからです。
義央は茶人として著名であるなど、官僚と言うより文化人でした。
つまり、教養豊かであったため、同レベルの頭のよい人とは仲良くした一方で、多少でも教養が足りないと感じた人には冷たく接したのかもしれません。
外面(そとづら)のよさとは裏腹の、プライベートな一面とでも言うべきでしょうか。
そしていよいよ、元禄赤穂事件を迎えることになります。
元禄赤穂事件のいきさつ
吉良義央を擁護する立場の人たちは、忠臣蔵のフィクション性を強調する傾向にあります。
そのため、何が事実で何が曖昧なのかを、きちんと見分ける必要があります。
江戸幕府の重要行事
西暦1701年の春、朝廷の勅使が江戸城にやって来ることになりました。
前述した通り、徳川家は意外と家柄を気にしていて、朝廷との付き合いを重視していました。
そのため、勅使の接待にも万全を期すのが常でした。
接待を行う勅使饗応役(きょうおうやく)に任じられたのが長矩、その指導を行うのが義央でした。
ここから、翌年にかけての元禄赤穂事件が始まります。
2人の間に何があったのか、いまだ正確なことはわかりません。
確実に言えるのは、義央が好かれるタイプの上司であれば、一連の事件は起きなかっただろうということです。
浅野長矩(ながのり)の評判
吉良義央の評判が決してよくなかったことはわかりました。
では、浅野長矩の評判はどうだったのでしょうか。
実は、長矩の評判も、可もなく不可もないという感じです。
赤穂藩自体はうまく治めていたようですが、いわゆる名君だったかと問われると、断言は難しいのです。
短気だったという記録も散見され、精神的に不安定だったとする見方も根強く支持されています。
そもそも、義央から何らかの嫌がらせを受けていたのであれば、上層部である幕府中枢に訴えればよかったのではないかとする指摘もあります。
何しろ、長矩が何か不始末をし、勅使を怒らせるようなことがあれば、指導役の義央の責任も問われることになったはずです。
嫌がらせのはっきりした証拠も残っていないため、長矩の一方的な逆恨みだとする義央擁護論も出てくるわけです。
松の廊下での刃傷(にんじょう)沙汰
浅野長矩の不満は、とうとう傷害事件という最悪の形で発散されます。
勅使接待の最終日に、長矩は江戸城内の松の廊下で義央に斬りかかります。
この後、長矩は取り押さえられ、幽閉から切腹へと進みます。
他方の義央は、特段の処罰はなしということで、赤穂浪士たちの恨みを買います。
この傷害事件の背景について、筆者が長年疑問に思ってきたことは、次の2点です。
第1に、まもなく嫌な役目も終わるという最終日に、何で長矩は我慢できなかったのかということです。
この間に嫌がらせがあったとしても、間もなく解放されるはずでした。
第2に、本当に殺害しようとしたのであれば、もっと致命傷を負わせるはずですし、何よりチャンスはほかにもあったはずです。
何も、将軍のお膝元で殺人未遂を犯さなくてもよかったのではないかということです。
こう見てくると、長矩の短慮という指摘も現実味を帯びてきます。
吉良邸討ち入り
長矩を失った赤穂浪士たちは、西暦1703年1月30日から翌31日にかけて江戸の吉良邸に討ち入り、元禄赤穂事件はクライマックスを迎えます。
当時の旧暦だと元禄15年12月14日から15日にかけての出来事だったため、テレビ時代劇が盛んだった頃は年末の風物詩とも言えました。
ここでも一言付け加えるなら、赤穂浪士たちの行いを快く思わない大名や町人も多くいました。
テレビ時代劇などでは、隣の住人が提灯をかざして援護したとか、長矩が葬られた泉岳寺に向かう赤穂浪士たちを喝采で見送ったといった描かれ方もされますが、そうした確証はありません。
泉岳寺の住職も、訪れた赤穂浪士たちを決して丁重には迎えなかった事実が伝わっています。
忠臣蔵はどこまで真実なのか?
元禄赤穂事件の経緯や、吉良義央・浅野長矩両人の生涯などは、現在では非常に多くの事実がわかっており、推論も数えきれないほどです。
しかし、1つだけ確実に言えることがあります。
それは、2000年代前半までのテレビ時代劇を挙げるまでもなく、元禄赤穂事件が忠臣蔵という戯曲名で知られてしまい、客観的に誤ったイメージが流布したということです。
客観的に事実と言える部分
吉良義央と浅野長矩の関係がよくなかったことや、赤穂浪士たちが死罪ではなく切腹となったところに幕府の配慮が働いたことなどは、恐らく否定できないでしょう。
また、義央・長矩の両人とも、それほど高潔な人格者ではなかったという点も確かです。
義央は無能な部下を許せない超エリートの上司、長矩は少々勉強不足の若手の部下だったと置き換えれば、さほど脚色しなくても元禄赤穂事件の背景は推察できます。
今では誤りとされている部分
前述しましたが、元禄赤穂事件への大名や町人の評価は当時から様々ですし、討ち入りに参加しなかった赤穂浪士たちもいたことに留意すべきです。
赤穂浪士たちは一枚岩で、一致団結して主君のかたき討ちに邁進したと思い込んでいるとすれば、それこそ忠臣蔵の負の影響です。
確証がないにもかかわらず忠臣蔵で極端に脚色されたエピソードは、この記事で紹介できないほどです。
少なくとも、吉良義央が意地悪じいさんで、浅野長矩は悲劇の貴公子と一方的に捉えること自体が、大きな誤りということです。
吉良義央って、どんな人?・まとめ
忠臣蔵は、主君のかたき討ちという性格から戦前にもてはやされ、その流れが戦後も続きました。
ところが、今ではその内容を知らない若い人たちも増えています。
テレビ時代劇が作られなくなったことや、主君のかたき討ちというテーマが時代に合わなくなったことが指摘されています。
確かに、赤穂浪士たちの行いは、現代社会で強く非難されるテロ行為そのものです。
吉良義央がどんなに憎たらしい人物であったとしても、殺害という行為に及ぶのは法治主義の否定であり、当時の幕府もその点を重視したと言われています。
現代社会のパワハラにも、きちんと通報の手順があります。
もちろん、吉良義央を全面的に擁護することはできませんが、仕事とプライベートは別と割り切れば、義央が有能な幕臣であったことは確かなのです。
参考文献
爆笑問題の忠臣蔵
歴史群像シリーズ57『元禄赤穂事件 将軍綱吉と「忠臣蔵」四十七士』学習研究社、1999年
岳真也『吉良上野介を弁護する』文春新書、2002年
綱澤満昭「「忠臣蔵」雑考」『近畿大学日本文化研究所紀要』3所収、2020年