宇喜多秀家の逸話・関ヶ原の戦いで運命が狂った?!

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宇喜多秀家は戦国時代の武将で豊臣家の一族。

どのような武将だったか、ご紹介していきます。

宇喜多秀家は、地方豪族である宇喜多直家の子として生まれました。

直家は主君として仕えていた村上氏を追放し、地方豪族から一躍、一国の戦国大名として成長した武将です。

宇喜多秀家は、下剋上の世を勝ち抜いてきた父と比較すると、実に対照的な人物。

秀家は素直さが目立つ武将だったそうです。

また秀家は端正な顔立ちであり、豊臣秀吉に気に入られ最年少でありながら豊臣五大老の一人にまで出世していく、いわば運の強さを持ち合わせた武将といえそうです。

これからさらに、秀家の人生で起きた様々な逸話を紹介する事で戦国武将として厳しい時代を生き抜いた宇喜多秀家の人生を紹介しようと思います。

宇喜多秀家
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目次

地方大名から豊臣家の一族へ

宇喜多直家がこの世を去った1581年に家督を引き継いだ宇喜多秀家。

宇喜多直家

父である直家は戦国時代において、暗躍と裏切りを繰り返しながら下剋上の世を成り上がってきた者として有名な武将でした。

状況次第で毛利と織田といずれにも帰属しながら、最後には織田家に従う事を決めた直家。

そしてこの直家の方針を継いだのが当時わずか、9歳だった秀家です。

秀家が継いだ宇喜多家の支配する領国は備前国(現在の岡山県東部)。

天下統一を目指す信長にとって備前国を領する宇喜多家の存在は極めて重要といえました。

その理由は、織田家が敵対関係にあった有力大名である毛利家と、宇喜多家の領国が隣接していたからと言われています。

もしも宇喜多家が、毛利方に付けば織田家は、毛利家を服従させるだけではなく隣国である備前国の宇喜多家とも戦わなければいけなくなります。

これに対して宇喜多家が、織田方の味方になれば、毛利攻略の最前線の勢力として織田方の先鋒となってくれるありがたい大名になります。

直家の決断により最後は、織田方についた宇喜多家。

まさに宇喜多家を味方につけ毛利攻略が本格化しつつある状況で、織田家に起きたのが1582年の本能寺の変。

一寸先は闇といえる事態が織田家に起きてしまいました。

本能寺の変後、織田家は毛利征伐を一時中止させますが、その後に織田家中に起きたのが

織田家の後継者争い。

そしてその後継者争いを制したのは、織田の一族でもなければ、筆頭家老の柴田勝家でも

ありませんでした。

後継者争いを制したのは農民の身から一気に昇りつめた羽柴秀吉という急成長した武将。

この羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の一武将として、歩んでいくのが宇喜多秀家です。

秀吉の側近への道筋

宇喜多家は織田家の配下となり、中国地方最大の大名である毛利氏攻略に参加します。

織田家中で中国地方の攻略を任されていたのは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)。

このため秀吉と共に備中高松城を攻める織田軍に宇喜多家は参加します。

この時、秀家はまだ幼少であったため、従軍はしていませんでした。

しかし家臣団が良く働き、その功績が秀吉から評価されます。

最終的に高松城攻めの戦は、本能寺の変が起きたため織田家は戦を辞めて毛利氏と講和。

しかし講和こそ成立したものの、依然として毛利家は中国地方最大の有力大名。

やはり毛利家は警戒すべき存在です。

このため毛利家の抑えとして、当時から秀吉の気に入りだった秀家の存在感が急速に増していきます。

織田家の勢力を承継しようと考えていた秀吉にとって、敵対する勢力は少しでも抑え込みたいと考えるのが自然の流れ。

このため秀吉配下の秀家は、講和の後、今までの領国に加え、備中さらには美作に得る事になる。

秀吉から加増を受けた後は、秀吉恩顧の有力な大名として毛利家対策を任され成長していったのが宇喜多秀家です。

容姿端麗で秀吉のお気に入り

秀吉は、大名の家柄でなかったため、先祖代々仕える譜代の家来を有していません。

このため秀吉の勢力が拡大するにつれて自身を支えていく家来を育てていく必要性が出てきました。

そして自身の気に入りの男子は積極的に養子縁組や婚姻関係によって一門としての待遇を行っていきます。

宇喜多秀家は、容姿端麗であり秀吉から気に入られ、中国地方における秀吉系の大名として特に厚遇されます。

秀吉が秀家に対して行った優遇策の一つが、自分の猶子にする事でした。

猶子は姓こそ変わりませんが、養子とほぼ同じ扱いを受けます。

元服時には秀家の秀の一文字を与え、秀家を厚遇していく秀吉。

さらに前田利家の娘にして秀吉の養女であった豪姫と結婚し、豊臣姓を名乗る事を秀吉から認められます。

そもそも豪姫は、秀吉のお気に入りの養女として知られた有名な存在。

豪姫との結婚というだけでも秀家がいかに秀吉に期待されていたかが理解できます。

豊臣家の天下統一へ参加

秀吉の縁故者となった秀家は、秀吉の配下として活躍していきます。

まず1584年の徳川家康と織田信雄の連合軍と戦った、小牧・長久手の戦いでは秀吉の本拠地である大阪城の守備を任される任務を遂行していきます。

そして長曾我部氏を征伐するため中国平定に出陣する秀家。

その後行われた島津氏を攻める九州平定や、秀吉の事実上の天下平定となる1590年の小田原の北条氏攻めにも参加していきます。

豊臣家の天下統一のため、常に秀吉側の大名として活躍する秀家。

天下統一を意識した激戦を続々と勝利する秀吉のカリスマ的な力を充分理解できた

秀家は、将来を見据えた行動がとれる武将だったといえそうです。

最年少の豊臣家の五大老として

日本国内を統一した豊臣秀吉は、さらなる領土拡大を目指します。

その領土拡大の対象になったのが中国大陸の明国。

明支配の足掛かりとしてまず着手したのが2度に渡る朝鮮出兵。

秀吉から朝鮮での武功が認められ、ついに豊臣五大老に就任する秀家。

五大老は徳川家康や前田利家など有力大名で構成され20代の大名は秀家のみでした。

最年少でありながら豊臣家の中枢に任じられた秀家。

豊臣家の後継者である豊臣秀頼の天下を支える豊臣一門の大名として期待されていきます。

朝鮮での活躍

秀家は、1592年の文禄の役では大将として、さらに1597年の慶長の役では軍監として共に朝鮮へ出兵します。

文禄の役ではその功績が秀吉に評価され、従三位・権中納言への叙任という栄誉を受ける

秀家。

また2度目に行われた朝鮮出兵である慶長の役では、日本軍は極めて苦戦を強いられます。

日本からの兵糧が断たれて、飢えに苦しむ中で少しずつ日本の武将に不満が出始めますが、秀家は善戦。

最後まで使命を全うし豊臣家の一門としての存在感を周囲に見せていきました。

秀頼のため職責を果たす秀家

下剋上の世の中で、一躍天下人にまで駆け上った豊臣秀吉。

秀吉は織田家の後継者争いに勝利した後、応仁の乱以降長く続いた、戦乱の世を終わらせた功績があります。

しかしその一方で朝鮮出兵を起こし、国際関係を悪くしたばかりか、豊臣家の支配体制を

徐々に弱体化させていきます。

次第に厳しい状況に置かれてきた豊臣家。

まさにこの状況で豊臣家の五大老にわずか24歳にして就任し重責を担う事となる秀家。

五大老の中で、豊臣家の姓を名乗り秀吉の猶子であったのは秀家のみでした。

五大老制は有力大名の合議制を採用し、その目的は、最大の石高を有する徳川家康の勢力拡大を抑える性格を有していたと言われています。

豊臣家の最高意思決定機関である五大老の一員のなった秀家。

豊臣秀頼の縁戚者として、徳川家康の存在感がさらに増さないよう、重要な役割が秀家に期待されていきます。

宇喜多騒動

関ヶ原の戦いの直前に宇喜多家で内紛が起きます。

世にいう宇喜多騒動と呼ばれる家臣間の内紛です。

秀家にとって有名な話でもあるため、ここで言及しておきます。

家臣間の対立

宇喜多家には戸川達安、花房正成など譜代の家臣がいました。

やがて秀家の正室である豪姫と共に宇喜多家に新しい家臣が来る事になりました。

豪姫と共に宇喜多家に来たのが中村刑部という人物。

やがて中村刑部と宇喜多家譜代の家臣団との間が対立していきます。

中村刑部は、経理や土木などの分野で有能であったため、宇喜多家で重く用いられていきました。

しかしこの人事が譜代の重臣たちには面白くありません。

代々仕えた自分たちの功績を認めてほしいと思う気持ちから次第に中村刑部に反発していく宇喜多家譜代の家臣たち。

やがて深刻な対立を招き、宇喜多家で譜代の代表格である宇喜多詮家を中心に中村刑部排除を目ざしその動きを活発化させていきます。

宇喜多家の家臣同士の対立は、諸大名に大きな波紋を投げかけていきました。

宇喜多騒動の影響

宇喜多家の内紛を極めて憂慮したのが、五奉行筆頭格の石田三成。

三成は宇喜多家の内紛が収まらず深刻化すれば、これを口実に徳川家康から口実をつけられ、宇喜多家の取り潰しの事態になるかもしれないと心配したそうです。

三成は、徳川家康排除に動いていたため豊臣恩顧の大名である宇喜多秀家の力が是非とも必要だと考えていました。

このためこの事態をなんとか鎮静化すべく積極的に動く石田三成。

しかしこの宇喜多家の騒動は、家臣間の対立が深刻であり想定外に長期化していきます。

最終的には、宇喜多家の内紛解決に着手したのが五大老筆頭の徳川家康。

家康は、この事態を鎮静化させ宇喜多家の譜代の家臣を宇喜多家から次第に切り離していきます。

そして切り離した宇喜多家の譜代の重臣たちをほとんど自分の家臣として取り立てていった家康。

当時は、他大名の重臣を召し抱える事で相手の大名の城の機密や軍政などを知る事により、相手に対して優位に立とうとする動きがあったそうです。

元々、宇喜多秀家は徳川家康の勢力拡大を警戒していたため、宇喜多騒動の結果、多くの

重臣たちを召し抱えた徳川家康に対して大いに反発していったのではと推察されます。

関ヶ原の戦いの敗戦とその後

石田三成と共に、西軍の主力として秀家は奮戦します。

西軍の中では最大勢力として主に福島正則隊と激闘を繰り広げ豊臣五大老の誇りをかけ戦った秀家。

しかし、秀家の活躍にも関わらず、西軍は敗戦。

無念に中で秀家は関ヶ原の戦場を去る事になります。

秀家はその後、九州の大名である島津家を頼り落ち延びる運命となります。

これが秀家の流転の人生の始まりといえました。

関ヶ原での敗戦

関ヶ原の戦いは、小早川秀秋の内応が無ければ結果は変わったかもしれないほど、当初はほぼ互角の勝負をしていました。

それだけに関ヶ原の戦いは秀家にとって無念な結果となってしまいました。

秀家は小早川秀秋の裏切りに激怒。

刺し違えてでも秀秋を討ち滅ぼすと言いながら、秀家は悔しがったそうです。

まさに関ヶ原の戦場を去る際の秀家の無念の気持ちがこちらまで伝わってくる発言ですね。

敗走し島津家へ

関ヶ原の戦場を離脱した秀家は伊吹山中に逃げ込みます。

秀家は、再度家康と決戦をすべく、再起を図ったのかもしれません。

しかしその願いは実現しませんでした。

やがて関ヶ原の落武者狩りをしていた矢野五右衛門に発見されてしまいます。

矢野に出くわした際の秀家の堂々とした態度に感動した矢野は、落武者として秀家を討つ事はありませんでした。

討つどころか、秀家を自身の家に数十日、匿ったそうです。

そして、まずは秀家の正室である豪姫の実家である前田家の大坂屋敷まで秀家を連れ出そうとします。

秀家を変装させなんとか前田家まで無事連れ出した矢野五右衛門に感謝した秀家。

しかし前田家までたどり着いた秀家でしたが、探索の目が厳しくなるや、ついに九州の

島津家を頼り大阪の地を去る事となります。

秀家が九州の地に向かったのは1601年6月初め頃ではと伝わっています。

秀家は島津家を頼ったのは、関ヶ原の戦いで島津家は西軍に属しており東軍の徳川家と

敵対する関係にあったからではと考えられています。

当時の島津家は徳川家康からの上洛要請を拒否し、あくまで本領安堵あってこその徳川家との講和だと強気の姿勢を崩していませんでした。

このため島津家は秀家の処遇について、しばらくは領内で匿う事としました。

しかし2年後に関ヶ原の戦いで正式に徳川家と島津家の講和が成立するや、秀家は島津家を去らなければいけなくなります。

なんとか九州の地までたどり着いた秀家でしたが、ついに駿河国の駿府城に移されてしまいます。

流人としての生涯

駿府城に移された後、秀家は、八丈島に流される事が正式に決定。

今日に伝わる八丈島への流人第1号が宇喜多秀家だったそうです。

秀家の八丈島での生活は50年間といいますから実に長期に渡る余生といえます。

秀家の日々の生活は、妻の実家の前田家からの援助や現地の人からの定期的な援助を除くと、毎日の生活は、のんびりとした質素な生活を過ごす日々だったそうです。

八丈島での有名なエピソードとして福島正則の家臣が、宇喜多秀家に酒を贈った話が残っています。

この話ですが、元々江戸にいた福島正則が、国元から酒を江戸に送るように依頼した

事がその始まりです。

船で江戸まで酒を輸送していたら、たまたま遭難し酒を乗せた船が流れついたのが八丈島でした。

この時福島家の船を見つけて近寄ってきたボロボロの服を着た男性。

この男性こそ、なんと宇喜多秀家その人でした。

福島家の家臣は、その容姿を哀れみ、正則のために酒を宇喜多秀家に贈ったと言われて

います。

後に江戸に戻った福島家の家臣からこの話を聞いた福島正則は、家臣の行動を賞賛しました。

関ヶ原の戦いで敵味方に分かれたとはいえ、宇喜多秀家は豊臣家の重臣にして五大老という有力な大名。

福島正則なりの秀家への礼儀を尽くした話として今日まで伝わる伝説といえそうです。

宇喜多秀家の逸話・まとめ

宇喜多秀家は、天下人であった豊臣秀吉に大切にされた大名です。

豊臣一門として厚遇され、豊臣家を支える五大老の一員にわずか20代で抜擢され、豊臣家支える立場を確立させていく秀家。

しかし関ヶ原の戦いで西軍の属したため、五大老から一転して追われる身になってしまう秀家。

各地を転々とし最後は流人として八丈島に流されます。

秀家は八丈島で50年過ごし、この世を去った時は、既に世は4代将軍である徳川家綱の時代となっていました。

結果的に、関ヶ原の戦いに参加した武将の中で、一番長く人生を送った武将として83年の生涯を生きた秀家。

秀家の墓は八丈島に現存し歴史を強く感じさせてくれます。

秀家の人生を振り返る事で、戦国時代がいかに生き残りの厳しい時代であったかを改めて感じさせてくれるのではないでしょうか。

【参考文献・参考サイト】

『司馬遼太郎』著:著者名 豊臣家の人々 出版社名 中公文庫

『司馬遼太郎』著:著者名 関ヶ原 出版社名 新潮文庫

サイト名  https://www.city.okayama.jp/museum/rekidai/ukita/hideie.htm

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