東京オリンピックまで約3カ月となりました!!
と言っても、今の日本のコロナ事情をみて、「中止にしたほうがいい」という声も挙がっていますよね。もし中止が決まれば、「2度目」の東京開催中止となります。
「えっ?1964年に東京でオリンピック開催されたよね??」と思っている方も多いと思いますが、筆者が述べているのは「1940年」開催予定だった東京オリンピックのことです。
このオリンピックで委員長(今でいう日本のオリンピック会長)を務めた男の名は徳川家達
名前から「もしかして??」と思い浮かべる人もいると思いますが、正にその通りです!!
彼はあの徳川一族の人間であり、徳川家16代目の当主で、徳川が政権を返上していなかったら、16代目の将軍になっていたはずの人物なのです。
この記事では、幻の16代将軍・徳川家達の悲運の生涯、都市伝説マニアたちに言われているオリンピック延期は徳川の呪いについてみていきたいと思います!
将軍になる予定だった男、「家達」
徳川家達は、1863年8月24日、江戸城田安屋敷にて、徳川慶頼の三男として誕生しました。
田安家は第8代将軍の吉宗の次男、宗武(むねたけ)を家祖とする家系であり、父の慶頼は、第14代将軍である徳川家茂の将軍後見職として、幕府の要職に就いていました。
13代将軍の家定、14代将軍の家茂は家達の再従兄弟(はとこ)にあたります。
1865年、家達の兄・寿千代(ひさちよ)が6歳で亡くなり、家達はわずか1歳半で田安家を相続することになります。そして翌年には14代将軍の家茂が20歳で亡くなってしまいます。
家茂の部下や家定の妻である天璋院(てんしょういん)は家茂の遺言に従い、徳川宗家に血統が近い家達(幼少期の名前は亀之助)に将軍職の相続を望みましたが、まだ幼児の家達では、国の舵取りは難しいということになりました。
また家達の想像区に有力藩の大名らが反対した結果、一橋家出身の徳川慶喜が15代目の将軍に就任したのです。
大政奉還により、将軍になれなかった!!
15代将軍の慶喜は、1867年、徳川家の政権を返上したいと明治天皇に申しあげ、
徳川政権は終わりを迎えます。これがいわゆる「大政奉還」です。
慶喜は将軍を辞め、1868年、家達は新しく政権を握った「新政府」から慶喜に代わり、徳川宗家の相続を許可され、駿府(現在の静岡県)の藩主として、70万石も与えられ、家達は徳川家の当主となったのです。
ちなみに駿府を「静岡」に改名したのは家達です。
その理由は家達の移住先であった地名が駿府府中(現在の静岡市葵区)という地名で、府中は不忠、つまり忠義がないという意味になるからだったんですね。
江戸を収めるチャンスを阻止された徳川家達
1869年、家達は静岡藩の知藩事(現在でいう県知事)に就任し、静岡へ移住しました。
しかし、1871年の廃藩置県(新政府が藩を廃止して、地方の統治を新政府管下の府と県に一元化した行政改革のこと)によって免職。
家達は東京(自身の出身地であるかつての江戸)へ戻ることになり、現在の渋谷区千駄ヶ谷に住むことになりました。「千駄ヶ谷」は重要なキーワードになるので、覚えておいてください!!
再び政治の場へ
1884年、後の初代内閣総理大臣となる伊藤博文を中心に、新政府は華族(江戸時代の大名家の一族)を公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5つの爵に区分する華族令を公布し、家達には爵の最高位である公爵が授けられました。
そして1890年、「衆議院」と「貴族院」の二院制でスタートした帝国議会において、貴族院議員になります。
貴族院は、選挙によって議員が選出される衆議院とは異なり、選挙はなく、皇族及び華族の者によって構成。議員任期は7年の者と終身任期の者がいました。(貴族院制度は1947年に廃止されます。)
再び江戸を収めるチャンスがやってきた!!
1898年、家達にあるチャンスが訪れます。
それは初代東京市長(現在で言う東京都知事)になるチャンスでした。
市長最有力とされ、選挙に出ようと考えたようですが、徳川一族の反対、そして徳川家には江戸だけでなく、また日本全体を収めてほしいという勝海舟の想いにより、出馬を辞退したのです。
徳川家達・再び日本の頂点へ
初代東京市長になれなかった家達に再び表舞台に立てるチャンスがやってきます。それは、「内閣総理大臣」です!!
1914年、山本権兵衛が内閣を組織していた時、(第1次山本内閣)、ドイツの電子機器製造会社「シーメンス」が日本海軍の高官に賄賂をしていたことが発覚、(いわゆるシーメンス事件)山本内閣は責任を取って総辞職しました。
そして同月27日、家達は国会から、次期総理の正式候補に挙げられたのです!!
ついに徳川が再び日本の頂点に立つチャンスが到来!!家達のテンションも上がったでしょうね!
総理候補に挙げられた理由は、家達が「公平」で「清廉潔白」な政治家であると評判だったからです。
しかし、次期総理の正式候補に挙げられた2日後、家達はこれを辞退します。辞退した理由は「徳川が政権に表立って関わるべきではない」ということ。また東京市長の件と同じく徳川家の反対もあったからでした。
話はもどりますが、海軍高官に賄賂をしていたシーメンス自社の製品が日本に初めて持ち込まれたのは江戸時代だった頃の1861年。ドイツの外交使節が「徳川将軍家」にシーメンス製の電信機を献上したのが最初です。
ん?もしかしてシーメンス事件は、将軍家に恩のあるシーメンス社が再び徳川に政権を握らす為に起こした事件だったりして??と思わずにはいられませんね。
アジア初の快挙、そして悲運の東京オリンピック
家達は生涯に渡り、様々な役職を歴任しました。
1913年に日本最大の社会福祉法人である「恩賜財団済生会」の2代目会長、1915年は明治神宮奉賛会会長、1921年には現在の日本サッカー協会にあたる大日本蹴球協会の名誉会長として、その発足に立ちあっています。
日本サッカー協会の名誉会長といえば、女性蔑視発言が発端でオリンピック会長を辞任した森喜朗氏の後任として真っ先に名が挙がった「川渕三郎」氏もかつてこの役職に就いてていました。
その後も家達は、様々な役職を歴任し、1929年に就任した日本赤十字社の社長は家達が死ぬまで務めることになります。
家達最後のチャンス!! 幻の「1940年」東京オリンピック
1936年、日本は1940年の夏季オリンピックの東京開催招致に成功します。
家達は東京市(現在でいう東京23区)や大日本体育会を中心に設立された「第二十回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任します。
開催すれば、「アジア史上初」のオリンピックであり、家達も委員長として歴史に名を残すチャンスでしたが、日本は1937年から始まった「日中戦争」が長期化し、競技場建設のため、鉄鋼などの資材が使われることを軍部は反対。
軍部の圧力を受けた内閣総理大臣の近衛文麿(このえふみまろ)は、戦争以外で使う資材の使用を制限する計画を決定し、その計画の中にオリンピック中止も明記され、開催する権利を返上しました。
家達にとっても年齢的に歴史に名を残す最後のチャンスでしたが、日本の情勢に阻まれ、またしても歴史に名を残すことは出来ませんでした。そして開催されるはずだった1940年、家達は76歳で亡くなります。
千駄ヶ谷を去る
徳川宗家の当主でもあった家達の死後の1943年、東京都は「武道館」の建設敷地として、千駄ヶ谷の徳川邸に着目します。
家達の長男、家正との交渉で譲渡は成立し、徳川宗家は、現在の原宿付近に移住し、長く暮らしていた千駄ヶ谷を去ります。
家達の呪い?
徳川家が去ってから、この土地に不幸が起こります。
武道館の建設は第2次世界大戦の影響で中断、一時は出征兵の宿舎となり、戦後は進駐軍(GHQ)に接収されました!!要するに徳川家から譲渡してもらった土地をアメリカ人に取られたってことです!!
1952年に土地は返還され、返還後は木造建築物を除去し、コンクリート造りの洋館は移動、翌年には「東京体育館」の建設が始まります。1957年、屋内水泳場建設に伴い、洋館も解体され、千駄ヶ谷の徳川邸は完全に姿を消しました。
一気に年を進んで、2018年、「東京でのオリンピック開催」にあたり、東京体育館では大規模な改修工事が始まりました。すべては2年後のために。
そして2年後、開催される予定だった「2020年東京オリンピック」は新型コロナウィルスの世界的な拡大により中止。
今年2021年に延期となっていますが、先行きの見えない日本のコロナ事情により、中止の声も出ているのが現状であり、オリンピック延期は「委員長としてオリンピックを開催出来ず、土地を奪われた家達の呪い」であると一部の都市伝説マニアの人々から言われています。
幻の16代将軍・徳川家達!オリンピック延期は徳川の呪い?・まとめ
今回、東京オリンピック延期の理由は、1940年の東京オリンピック委員長を務めたのに開催されず、自分の土地だった場所にオリンピック関連施設を建てられた男、「徳川家達」の呪いなのではないかという仮説から、家達の生涯について述べてきました。
将軍にも東京市長にも総理大臣にもなれず、委員長となったオリンピックも開催されず、この世を去り、死後土地まで奪われた家達。
確かにこれほど不幸があれば、むしろ怨念がないほうが不思議なくらいだと筆者は思います。
筆者の妄想になりますが、家達は死ぬ間際、「東京でオリンピック開催が決まったら、この土地(千駄ヶ谷)はオリンピックのために使ってほしい」と言っていたのではないでしょうか?
徳川家が千駄ヶ谷に持っていた土地は約10万坪あり、何十年にも渡り、徳川家が持っていました。その土地を徳川家が簡単に手放すとは考えにくく、手放すとすれば、「当主の遺言」があったからではないでしょうか?
そうなると家達は、死んだ後の「夢」を持っていたことになります。
「死してなお東京でのオリンピックに貢献したい」そんな思いがあったのではないかと思います。実際に旧徳川家の土地に建てられた東京体育館は1964年のオリンピックで主要の競技場の一つとして使われました。これこそが家達の死後の夢であったと筆者は感じます。
そうだとしたら、今回のオリンピック延期は「徳川の呪い」ではなく、「政治や土地を手放してもなお、オリンピック開催を通じ日本に貢献した徳川家を恨む者」の呪いかもしれません。
参考文献
公益財団法人 徳川記念財団http://www.tokugawa.ne.jp/200902iesato.htm
東京都スポーツ文化事業団https://www.tef.or.jp/tmg/
yamas notehttps://squatyama.blog.ss-blog.jp/archive/c2306150148-2
ウィキペディア 「徳川家達」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94