ジョン万次郎は何をした人?功績やアメリカ生活などジョン万次郎の生涯を解説します!

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みなさんこんにちは!

ジョン万次郎という名前は聞いたことあるでしょうか?幕末の偉人といえば坂本龍馬や西郷隆盛などが有名ですね。

しかしこのジョン万次郎、隠れた偉人と呼ぶにぴったりな人なんです!

彼はいったいどんな生涯を送ってきたのでしょうか?

詳しく見ていきましょう!

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目次

日本でのジョン万次郎

ジョン万次郎

ジョン万次郎は1827年、中濱万次郎として土佐藩(現在の高知県)で生まれました。漁師の家に生まれ、彼は次男でした。裕福ではないが貧乏でもない、普通の家庭だったそうです。

しかし、万次郎が8歳の時に父親が亡くなります。これを機に一気に暮らしは厳しくなりました。そして母親だけに頼るわけにはいかず、万次郎も働き始めました。

子守、小間使い、網の繕いなどなんでもやりました。

しかし万次郎も遊び盛りの少年です。お金を貰いながら遊ぶ方法を考えました。子守の間はおんぶをしていなければなりません。

そこで万次郎は網でハンモックのようなものを作り、そこに子供を乗せて自分は海に泳ぎにいくのでした。

米の精米も、小石を入れて米をつくことでスピードアップを図りました。

現代では創意工夫とも言える彼の行動を、当時の大人は手抜きだと叱るのでした。そんな万次郎はわんぱく坊主と呼ばれ評判が悪かったそうです。

万次郎の母親はそんな彼を見かねて、地元から100kmも離れた場所へ漁師見習いとして彼を送り込みます。土佐の漁師の世界では、14歳になるまで漁には出てはならないという掟がありました。

万次郎は14歳になるまで陸地で下積み生活を始めるのでした。

ジョン万次郎、いざ!漁へ!

14歳になった万次郎は、満を持して漁の初陣に出ます。一緒に漁に出たのは、万次郎を含め5人でした。初日、2日目と不漁が続きました。しかし3日目、ついに鯵の大群に遭遇します。

5人は漁に熱中していました。その時、万次郎の運命を大きく変えることが起きます。

天気と海が荒れ、万次郎が乗った船は黒潮に飲まれて南東の沖へと流されてしまったのです。陸はどんどん離れていき、万次郎は初めての漁で海の怖さを思い知らされたのでした。

食料も飲水も尽きた漂流7日目、ついに小さな島影を見つけます。5人は疲れた体に鞭を打って島に近づくと上陸するのは難しい岩場だということがわかります。

ジョン万次郎の乗った船は陸にギリギリまで近づき運良く大波に打ち上げられ着岸することに成功しました。

船は木端微塵になり、一人は足を骨折してしまいました。なにはともあれ、一応は陸にあがれたことに安堵した5人でした。

さてここは行ったどこなんでしょう?

5人は上陸した島が江戸から580km離れた島であったことに気づいてはいませんでした・・・まさに絶海の孤島だったのです。

鳥島でのジョン万次郎

さて、絶海の孤島まで流されてしまった5人はどうやって生き延びたのでしょうか。足を骨折した1人を残し、4人は島を探検します。そこで、洞窟を見つけました。

広くはないですが、雨風をしのげるだけでも十分価値があります。

ジョン万次郎達はそこを生活の拠点としました。次に食料と飲料水の確保が必要になります。運がいいことに、鳥島はアホウドリの生息地だったのです。

彼らの地元である土佐にも飛来していたので習性をよく知っていました。飛び立つにはかなり助走が必要で、よたよたと助走をつけている間に捕獲すると簡単に捕まえられるのです。

万次郎達にとって、アホウドリはまさに命綱でした。漂着して3ヵ月ほど経ったある日、遠くに船の影らしきものを見つけました。

助かるかもしれない、と彼らは大声をあげて助けを求めますが船は遠ざかっていくばかり・・・一度希望が見えた分、落胆は大きかったでしょう。

さらに時はすぎ、渡り鳥であるアホウドリも次々と飛び立っていきます。岩場に打ち付けられた時に漁に使う道具は全て失ってしまっていました。

アホウドリがいなくなってしまった今となっては、食料は海藻ばかり。どんどんやせ細っていきました。

絶望感

さらに地震に見舞われ、拠点としていた洞窟の一部が崩れ落ちてしまいました。

もう本当にだめかもしれない・・・という絶望が彼らを襲いました。

いつでも知恵を絞り、諦めないという不屈の精神をもった万次郎も「あの時ばかりはもうだめかと思うときがしばしばあった」と後年に述べていたそうです。

そんな絶望の中にいたある日、いつも通り浜辺で食料を探していると、遠くに船の影を見つけました。じっと目を凝らしていると、船がこちらに近づいてきたのです!

洞窟に戻って仲間に知らせ、ケガをしている1人とその付き添いを残し、3人で浜に向かいます。着物を振って叫び、助けを求めました。

しかしその大きな船は何事もなかったかのように通りすぎてしまったのです。3人はその場で崩れ、泣きました。

同じ日の午後、沖合4kmほどのところに同じ船が停泊しているのを見つけました。

その船から小さな船が降ろされ、まっすぐこちらに向かってくるのです。再度洞窟に戻り、3人で助けを求めに浜へ向かいました。

すると今度は気づいてもらえたのです!

助けにきたのは異人?

小舟に乗っていたのは異人達でした。その異人達は、泳いで来いというようなジェスチャーでなにかを叫んでいました。

波が荒く、それ以上こちらに近づけないようでした。3人は顔を見合わせて考えます。海が怖かったのではありません。

3人とも、異人を見るのは初めてでした。なにをされるかわからないという不安が心をよぎりました。

しかし、躊躇している場合ではありません。

万次郎は海に飛び込んで小舟に泳ぎ着き、異人に引き上げてもらいます。

そんな万次郎の姿を見て、残りの2人も後に続きました。

そして万次郎は身振り手振りであと2人が島に残っていることを伝え、1841年5月9日、ついに5人は救助されたのです。

無人島での生活は413日にも及びました。

彼らを助けた船は、アメリカのジョン・ハウランド号でした。

捕鯨船でのジョン万次郎

ジョン号は、アメリカのマサチューセッツ州のニューベッドフォード港を母港とする捕鯨船でした。

34人の乗組員を乗せていて、船長は後に万次郎の運命の人となるウイリアム・ホイットフィールド船長でした。

船長の航海日誌によると、ウミガメでもいないかと小舟をおろして探させにいったところ、万次郎達5人を見つけたそうです。

助けを求めた万次郎達に気づいたからではなかったのです。

なんと運のいい・・・

船に収容された5人の元に、船員が山盛りの芋を持ってきてくれました。

飢えきった5人はそれに飛びつこうとすると、船長が現れていきなりその船員を怒鳴りつけ、船員は慌ててその芋を持ち帰ってしまったのです。

英語がわからず、唖然とする5人の前に代わりに運ばれてきたものは少量のパンと野菜のスープでした。

しかしあまりにも量が少なく、空腹を満たすには全然足りなかったのです。

あの芋のことを思うと船長のことが恨めしく、食料が大事なのはわかるがあんなに怒鳴らなくてもいいだろうと5人で愚痴りあいました。

翌日、船長はなにやら島に戻れと万次郎に言い出すのです。どうやら、荷物をとってこいと言っているようでした。

この時万次郎は、船長はもしかしてケチで嫌な人ではないのでは?と思うようになります。そうなると、昨日の芋の一件もなにか理由があるのではないかと思えるようになりました。

その日の午後、錨をあげて動き出した船の行先に万次郎達は不安を覚えます。

自分達が思う日本の方角と違う方向に船が進んでいるのです。

慌てて船長に訴えると、船長が現在地を地図で教えてくれました。そこで万次郎達は自分が絶海の孤島にいたことを知り驚愕したのです。

日本へは帰れない

それと共に、やはり日本とは違う方角に向かっていることに確信を持ちます。

なぜ日本から遠ざかるのだ!!と船長に詰め寄りました。

その頃の日本は鎖国状態にあり、4年前に起きたモリソン号事件のことを船長は知っていました。異国船は日本に近づけなかったのです。

そのことを船長は説明しますが、なにせ英語が通じない。

しかし万次郎は、なにか事情があってそれを一生懸命説明してくれていることを理解しました。

船長のことを信じてもいい人だと思いつつも、言葉がわからず歯がゆいと感じ始めました。

そこで、手のあいた船員に英語を教えてくれと頼みました。万次郎のその積極的な姿勢を、船員達はほほえましく受け入れてくれたのでした。

もともと勘がよかったこともあり、みるみるうちに英語を修得していった万次郎は、船員達からいろんな話を聞けました。

終日ただ船室にこもる残りの4人に、やっとわかった2つのことを伝えます。1つは、初日の芋のことです。あれは、船長がケチだからではなかったのです。

極端に飢えた人に突然大量に食べ物を与えることは危険なことで、時には死につながることも船長は知っていたからこその行動だったのです。

そして2つ目は、この船が日本に向かわない理由でした。

それを聞くなり4人は頭を抱えましたが、万次郎だけはいつか帰れる!と前向きだったそうです。万次郎達が救助された船は捕鯨船。

アメリカへ上陸

初めて見る捕鯨のシーンに5人は呆然としました。大きさもやることもダイナミックで、こんなことが異国にはあるのかと衝撃を受けました。

その作業の中でも、万次郎は銛打ちの作業に惹かれました。誰に言われたわけでもなく、飛んで行って手伝います。

これを機に、万次郎は自分にできることはなんでもやりました。

洗濯、給仕、船長の身の回りの世話・・・

時には鯨の発見を知らせることもあり、何度か目に褒美として他の人と同じ帽子を貰えました。他の人と同じように扱ってもらえたことが嬉しく、いっそう励むのでした。

初めて見る異国の人のところに飛び込んで行く勇気、あっぱれですね。

1841年11月20日、万次郎達を乗せたハウランド号はハワイのオアフ島に寄港します。

船長はそこでアメリカ領事館に5人を連れていき、宣教師に預けることにしました。

5人は宣教師に見守られながらハワイで暮らし、帰国の機会を伺うことになるのです。

しかし船長は、万次郎をアメリカ本土に連れていくことを考えていました。

彼の才能を認め、教育を受けさせようと思っていたのです。万次郎にどうするか聞くと、連れていってほしいと即答したのでした。

12月1日、日本人5人組の中で万次郎のみを乗せたハウランド号はアメリカに向けて出港しました。

アメリカでのジョン万次郎

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/

1843年5月7日、ハウランド号はマサチューセッツ州のニューベッドフォードに帰港します。

万次郎にとっては、土佐で出港してから実に2年半近くも経っていたのでした。

港に降り立った万次郎は、そこの活気に圧倒されます。

アメリカの東部海岸にあるその町は、人口は2万人にも満たないものの大小合わせて300隻もの捕鯨船が在籍していました。

世界最大の捕鯨基地だったのです。

通り沿いには捕鯨を支えるたくさんの商店が並び、そのどれもが活気に溢れていました。

それを眺めながら、船長はアメリカでの捕鯨の意味を万次郎に教えます。

皮から煮だした鯨油はランプの燃料はロウソクの原材料に欠かせないこと、蒸気機関や紡績機械の潤滑油にもなること・・・

さらには、骨は紳士のステッキやパイプ、服のボタンにもなります。

鯨の利用範囲はとんでもなく広く、市民生活を営むうえで必要不可欠な資源だったのです。

万次郎は土佐で鯨を見たことはあるものの、まさかそんな資源の塊だということを知らずにまた驚きます。

土佐を出てからの2年半、異国は驚きの連続でした。

船長が国を支えている自負と誇りを持っていることを感じ、万次郎はアメリカまで来たことを間違いではなかったと確信したのでした。

それから間もなく、約束通り船長は万次郎に教育を受けさせます。船長の家の近くにある、初等教育の学校に入学しました。

船での2年間で会話は身に着けたものの、読み書きはさっぱりだったのです。アレン先生という女性教師のもと、ほかの子供たちと一緒に懸命に学びます。

土佐では寺子屋にも通えなかった万次郎は、日本語の読み書きもできませんでした。

つまり万次郎は、日本人でありながら初めて正式に学んだのは英語だったのです。この時代の人ではありえないような話ですね!!

ある日万次郎は、何気なく町の公会堂を覗きました。

そこでは、住民が集まって自由に意見を言い合い、多数決で町の行政を決めていました。

万次郎にとっては信じられないことでした。

日本では藩や幕府の考えを役人がおろしてくるだけで、民意が反映されることなどなかったのです。

このアメリカの民主制も、万次郎の印象に残ったことでした。それからしばらくして、船長の結婚とともに引越しをします。

以前の学校に通うのが不便になった為、転校することになりました。

1844年、17歳になった万次郎は高等船員を養成する専門学校に入学しました。

ここで万次郎は、英語、文学、歴史、数学などの一般教養から、船員に必要な測量術、航海術などの専門学なども学びました。

そんな学校の中で万次郎は常に成績トップクラスだったのです。

船長は、学校に通う万次郎を残して次の航海へと出ていきました。その間、少しでも家計を助けようと桶屋で働くことにしました。

そして見事半年で樽を作る技術を身につけたのです。1846年、船長不在のまま、万次郎は首席で学校を卒業しました。

そんな万次郎に、「次の航海に一緒に行かないか」と声がかかります。

ハウランド号に乗っていた、アイラでした。アイラはこの時、フランクリン号の船長に昇進していました。

万次郎にとっては捕鯨航海に出られる願ってもないチャンスでした。

船長の奥さんも優しく送り出してくれ、念願の航海に出ることになります。

捕鯨船員時代

1846年5月16日、フランクリン号はニューベッドフォードを出港しました。

専門学校で学んだことは伊達ではありませんでした。

先輩達にまざって、2日後に船はどこに着くかという予測を競いあうこともありました。

そこで万次郎の的中率は抜群に高かったのです。

万次郎の能力は徐々に認められ、測量作業を任されるようになりました。

しかし楽しいことばかりではありません。

万次郎は航海中に、太平洋に点在する島がことごとく西洋先進国の領地や植民地となっていることを目にするのです。

日本もそうならないとは限りません。複雑な思いが万次郎を襲うのでした。

日本に戻りたい・・・!

出港して10ヵ月後、フランクリン号はグアムに到着しました。そしてアイラに連れられて、他の捕鯨船との情報交換に行きます。

そこで万次郎は心を重くするのでした。

話題は主に日本の鎖国政策の批判だったからです。

各地の情報誌では、太平洋にまだ鯨がたくさんいた頃は日本に好意的でした。

しかし、捕鯨の航海の距離が鯨の数が減るにつれて長くなっていくと態度は一変しました。

薪や給水の為に寄港しようとすると、手荒く追い返されることが理由です。

対象は外国人だけでなく、異国の地を踏んだ日本人も処刑されました。

日本人を助け、日本に送り届けてくれたモリソン号にも砲撃するような有様でした。

そんな日本の対応は、彼らには信じられないものだったのです。

万次郎はさらに情報を得る為にいろいろな酒場へ足を運びました。

日本と唯一国交があるオランダの国旗を掲げて日本に入港した船があること、ロシアが盛んに日本を狙っていること・・・

たくさんの情報を得ていく中で、万次郎は太平洋で見てきた植民地にされた島々を思い出していました。

なんとかしなければ!!

アメリカは植民地にしたいのではなく、友好的な関係を結びたいだけなのだと役人に伝える為に帰ることにしました。

あまり頑固な態度をとると、それこそ武力で圧倒されて植民地になってしまう。

そんな危機感があったのです。こうして万次郎は日本に帰る準備を始めることに・・・

日本への帰国

ジョン万次郎は日本に帰るための情報収集を始め、次に資金を集め始めます。

資金集めに時間をかけるわけにもいかない万次郎は、ゴールドラッシュに乗っかるためにカリフォルニアに向かいました。

ゴールドラッシュに参加した日本人がいるとは意外ですよね。

余談ですが、このゴールドラッシュの間に作業員用の服としてできたのがリーバイスです。

もしかしたら万次郎もリーバイスを履いて作業していたかもしれませんね。

労働環境の厳しい中で70日あまり働き600ドルを稼いだ万次郎はさっさとカリフォルニアを後にします。

仲間と日本帰国計画

1850年9月、万次郎は共に漂流した仲間がいるホノルル行きの船に乗り込みました。

1850年10月10日、ホノルルに到着した万次郎は、日本に帰る意思のある2人の仲間と帰国計画を進めます。

彼らの計画には、ホノルルの船員用新聞社のデーモン編集長が手を貸してくれました。

日本近海まで乗せてくれる船を探し、上陸用の船も手に入れた万次郎。

しかし、異国の地を踏んだ万次郎達は処刑される可能性も大いにあります。

そんな万次郎達の為に、デーモン編集長は万が一に備えてアメリカ領事に3人に対する身分証明書を書いてくれるよう働きかけてくれました。

万次郎達が帰国したときに、幕府にあらぬ疑いをかけられないようにする為のものでした。

どれくらいの効果があるかはわかりませんが、アメリカ政府が初めて発行した身分証明書だったのです。

さらにデーモン編集長は、新聞で帰国計画の特集を組み、読者に支援をよびかけてくれました。

多くの義援金や応援物資、メッセージと共に満を持して日本へと出発することになります。

この人種を超えた無償の善意に彼らは胸が熱くなったことでしょう。

日本近海まで送ってくれた船を降り、上陸用の船で一路オールを漕ぎだします。

彼らがたどり着いたのは、琉球の現在で言う糸満市でした。

ついにジョン万次郎・日本帰国

1851年、やっと日本に帰ってきたのです。漂流当時14歳だった万次郎は、24歳になっていました。

薩摩藩の統治下にあった琉球で国禁をおかしたとして身柄を拘束された3人は、薩摩藩の役人から取り調べを受けます。

しかし拘束されると言っても、監禁されていたわけではありません。

村の中の家に身柄を預けられ、そこで大人しくしているように言われただけだったのです。

万次郎は役人に命じられるまま大人しくしていた他の2人とは対照的でした。

農村の人たちと交流し、夜中に村の若者達と語り合い、夏祭りや綱引き大会に参加しました。

そんな万次郎もついに薩摩藩主のもとへ送られる日が来ます。薩摩藩にたどり着いた万次郎に、驚くべきことが起きました。

藩主の島津斉彬が直々に取り調べをし、外国のことを話せというのです。

ジョン万次郎・アメリカ生活を語る

万次郎はこの10年で知りえたアメリカについて語りました。

アメリカが開国をせまる理由や、今のまま頑なな態度をとると危機的状況んい陥ること・・・

そんな万次郎の話に殿様はじっと耳を傾けてくれました。

斉彬は、海外に漂流して帰国した者は全て長崎で厳しい取り調べを受けなければならないことを知っていました。

そして斉彬は、万次郎という逸材を守るために釘をさしておきました。

「いついかなる場でも、間違っても開国のために帰ってきたと言ってはならない。母恋しさで帰ってきたと申せ。」

万次郎を死なせない為の殿様の気遣いでした。

そして万次郎達を長崎へ送り出す日がきました。

鹿児島から長崎へ向かう船は、罪人を乗せる船ではなく立派な船での護送でした。

それは斉彬のはからいでした。

さらに斉彬は長崎奉行宛の送り状に「将来必ず国のために役立つ人財であるがゆえ、粗末に扱わぬよう」という自らの署名入りで記してくれました。

ハワイでの領事に続き、薩摩藩主からも身分証明書を発行してもらったのです。

どれだけすごい人であったのでしょう・・・ぜひ直接お話ししてみたかったものです。

取り調べの日々

河田小龍 かわだ しょうりょう

斉彬の忠告通り、万次郎は母恋しさで帰ってきたと嘘をつき続けました。長崎での取り調べは9ヵ月にも及びました。踏み絵も行われました。

海外に漂流したものがキリスト教徒になっていないかは、罪の判断の重要な要素だったのです。万次郎はなんの躊躇もなくキリストの絵を踏みました。

そして1852年6月23日、万次郎達3人は無罪として放免されます。そして3人は、土佐を目指して出発しました。帰国から1年半が経っていました。

長崎を出発して半月後、ついに土佐に到着します。

久しぶりの故郷に胸を踊らす3人を待っていたのは、ここでもやはり取り調べでした。取り調べは2か月半に及びました

この取り調べの記録係を担当したのが河田小龍(かわだ しょうりょう)という土佐藩お抱えの絵師でした。

河田小龍は万次郎を自宅に寄宿させ、体験談や海外事情を筆記してまとめあげました。

しかし予備知識のない人にアメリカの最先端技術を伝えるのはとても難しく、万次郎は苦戦します。

例えば、「テレカラーフ」なるものを紹介していますが、これは電信のことです。

「高い木柱に張った鍼金に文を結ぶ」という表現で、遠くの者に意思を伝える手段として紹介しているのです。

この説明は人々の誤解を招き、明治の文明開化後には電柱によじのぼって電線に手紙を吊るす人が続出したそうです。

たしかに、そのものを知らない人に説明するのって難しいですね・・・

鉛筆を鉛筆という言葉を使わずに説明する、シャーペンなんてもっと難しいでしょう。

さて、そんな高知城下での取り調べも終わりを迎えます。

よその土地へ行かずに生涯生まれ故郷で過ごすことを条件に3人はやっと解放されました。

仲間と別れた万次郎はそこから4日間歩き続け、ついに生まれ故郷の中ノ濱へと急ぎます。

11年と10ヵ月ぶりに目にした故郷の景色でした。

庄屋の家に帰国の挨拶に向かうと、そこには万次郎の家族や村の人々がいました。

中心には、片時も忘れることのなかった母親の姿もあります。

母親は年を重ね小さくなっていました。

自分が奉公に出したばっかりに息子は死んでしまったと悔い続けてきた母親にとって、奇跡の再会でした。

約12年に及ぶ長旅からやっと故郷に帰り、母親に会うことができたのです。

もう言葉にならないほどの思いでしたでしょう。

しかしそんな万次郎に、故郷をゆっくり堪能する時間は与えられませんでした。

ジョン万次郎・大抜擢

帰郷から3日後、また高知城から呼び出しの命令が届きます。

「定小者」に取り立てるから、教授館で英語や西洋事情を教えろとのお達しだったのです。

定小者は最下級ではあるが帯刀を許される、れっきとした武士の身分でした。さらに教授館は藩校です。

身分の上下に厳しい土佐藩では庶民が武士に講義することなどまずあり得ないことでした。命に従い再び高知に出た万次郎は、教授館での教育に自分の力全てを注ぎました。

世界との関係において、日本が今どれだけ危機的状況に置かれているかを語ります。

これこそが、万次郎が帰国してやりたかった国を動かすということの第一歩だと思っていたのです。

この講義を聞いていた中に、後の世に名前を残すことになる人たちがいました。

後藤象二郎や岩崎弥太郎です。

そして若き日の坂本龍馬の目を海外に向けさせるきっかけも万次郎でした。

坂本龍馬は、先に出てきた河田小龍のところに出入りしていました。

そこで見た海外事情は龍馬にとって強烈な衝撃でした。もしかしたら、万次郎と龍馬も交流があったかもしれませんね。

そして半年後、万次郎を待っていたかのように状況が大きく動き出しました。

1853年7月8日、あのペリー率いる軍艦4隻が浦賀にやってきたのです。

大砲を備えた黒船に幕府は慌てました。

追い払おうにも幕府にはそんな武力はありませんでした。

開国を要求した手紙を手に上陸したペリーは、来春また来るまでに返答を用意しておくようにと言います。

そして悠然と去っていったのでした。

とにかく脅威は去ったことに庶民はホッとしますが、幕府は大混乱です。

そんな時、蘭学者の大槻磐渓が万次郎の登用を進言したのです。

その存在は老中も知っていました。

長崎奉行から「すこぶる怜悧にして、国家の用となるべき者なり」という報告が入ってきていたからでした。

こうして万次郎は江戸に呼び寄せられることになりました。ここで慌てたのは土佐藩でした。

幕府が必要とするような人財を、足軽にも及ばない地位に置いているからです。

急いで万次郎を徒士格へと引き上げ、江戸へ送り出しました。ペリーが去って2ヵ月半後、万次郎は江戸に到着しました。

老中は万次郎をすぐに呼びつけ、アメリカなる国の詳細を語るように言いつけます。万次郎はついに時がきたと思ったでしょう。

アメリカという国を日本国の中枢に教え、国を守る為に帰ってきたのです。

念願叶い、万次郎は老中にアメリカのことを話します。

長きにわたってアメリカで暮らした万次郎の話は、大きな説得力と共に老中に伝わりました。

万次郎は、江戸では江川太郎左衛門英龍に預けられました。これは江川太郎左衛門のほうからの要望でした。

幕府から頼まれた蒸気船の建造を万次郎にも手伝ってほしかったからです。

ジョン万次郎・そして幕臣へ

しばらくして、万次郎は幕府直参に取り立てられます。

土佐の奉公に出されるような身分だった人がついに幕臣になったのです。

江川太郎左衛門は万次郎の知識をフル活用するため、長崎で没収されていた万次郎の洋書を全て取り寄せます。

そして幕府がなんでもかんでも万次郎に、とやらせていた天文方教授の辞令を取り消させました。

当時最先端の技術や知識を持つ者達が集まるところに万次郎を連れていったのです。

しかしそんな万次郎は、攘夷派からするととても邪魔者でした。命を狙われることもあり、幕府が護衛をつけたほどです。

万次郎帰国とペリー来航は偶然?

万次郎が帰国したのとペリーが来航したのが同時期だということが、ただの幸運だと思う人もいます。

しかし、これを裏読みする人もいるのです。

水戸藩の徳川斉昭は、事を有利に運びたいアメリカのスパイなのではと勘ぐります。

こういう考え方の違いや受け取り方の違いが物事をこじらせていくのですね・・・

さて、ペリーが2度目の来航をしました。

当初は、江川太郎左衛門が交渉の全権を握り、万次郎を通訳として連れていく予定でした。

しかし実際は2人の姿はありませんでした。それは幕府の邪推や思惑がそうさせたのです。

徳川斉昭は、万次郎はアメリカに恩があるのだからアメリカに有利な工作をするのではと思っていました。

また老中は老中で、万次郎がアメリカ船に乗ることで連れ去られでもしたら・・と危惧したのです。

こうして万次郎が出てくることなく、1854年3月31日、日米和親条約が結ばれました。

しかし、条約案の翻訳を任されていた万次郎は内容をみて憤慨していたのです。

アメリカが一方的に有利な条件であったからです。

幕府の首脳陣にこんなものは呑んではいけないと進言するもむなしく、条約は締結されてしまったのでした。

自分が交渉の場に行っていれば・・・と悔しい思いをしたでしょうね。

1857年、30歳になった万次郎は軍艦教授所で航海術などを教えるようになっていました。

翌年、捕鯨事業を立ち上げる建議書を幕府に提出します。

その提案は受け入れられ、間もなく万次郎は松前藩へ向かうことになります。

しかし、アメリカ帰りの俄侍に教わることなどなにもない、と漁師たちに反発されたのです。

結局なんの成果も得られないまま江戸に帰りました。しかし万次郎は諦めず、あくまで捕鯨に拘ります。

1859年3月、ついに伊豆で建造された西洋式帆船で出帆することになりました。

しかし意気揚々と出港したはいいものの大時化にあい、乗組員の未熟さもあって船は大破します。

西洋式捕鯨の実習は開始早々に失敗したのです。

どうしたらうまくいくかと考え込む万次郎に、思いがけぬ命令が下ります。

再度アメリカへ

万次郎に下った命令とは、日米修好通商条約の批准書交換の為にアメリカに向かう使節団に同行せよとのことでした。

ワシントンで行われるその作業の通訳に万次郎が選ばれたのです。

万次郎が乗り込んだのは、オランダから購入した蒸気船咸臨丸でした。勝海舟や福沢諭吉らと一緒に行ったのです。

他の人が有名すぎますね。

船の操縦のなんの役にも立たない日本人乗組員の中で、万次郎はひときわ輝いていました。

浦賀を出発して37日目に、咸臨丸はサンフランシスコに到着しました。

帰国資金を貯めるために23歳で訪れて以来、10年ぶりのサンフランシスコでした。

辞書やミシン、カメラなどを買い込み、久しぶりのアメリカを堪能する万次郎に驚きの通達が来ます。

ワシントンには連れていってもらえず、そのまま日本に戻れとのことです。

咸臨丸の修理が間に合わなかったことが理由でしたが、通訳として連れてこられたのに意味がわかりません。

ワシントンに行けば恩人の船長に会いに行けると思っていたのに、さぞがっかりしたことでしょう。

しかし帰りに寄港したハワイのホノルルでデーモン編集長には再会できました。

そして、船長宛に書いた手紙を託します。

それは、船長の家を出てから今までの報告と感謝の手紙でした。

その後の万次郎

咸臨丸で日本に帰って数か月しました。いきなり万次郎は軍艦操練所の教授をクビになります。横浜にいたアメリカ船の招待に応じたことが理由でした。しかしこれをチャンスと万次郎は捉えます。

どこまでポジティブなんでしょう・・・これを機会に、万次郎は小笠原諸島へ行くことにしました。アメリカ人やイギリス人などの様々な国籍の人が永住していて、それぞれが自国の島だと主張していたのです。

万次郎は島民を集めてはここは日本であるということを説明しました。そして八丈島から連れて行った日本人を残し、日の丸を掲げさせて帰ってきたのでした。

その頃のアメリカと日本の関係は対等ではありませんでした。罪人として拘束したアメリカ人を、見舞金をつけて釈放する有様です。

1864年から、万次郎は薩摩藩や土佐藩の藩校にて教授を勤めました。そうこうしているうちに、260年続いた泰平の世である江戸時代が終わりを迎えました。

1870年、明治新政府から万次郎に要請がきます。ドイツとフランスの戦争の視察に通訳として参加するようにとのことでした。

この出張は、アメリカ経由で、途中ニューヨークに滞在する予定になっていました。

それを知って万次郎は大興奮です!

ニューヨークからフェアヘーブンはすぐ近くだからです。やっと、やっと、ホイットフィールド船長を訪ねることができるのです。

1870年9月23日、横浜を出発しました。26日間かけてサンフランシスコに到着し、観光のあとニューヨークに着きました。

万次郎は休暇を貰い、汽車でフェアヘーブンへと向かいます。

懐かしい街並みはほとんど変わっていませんでした。突然の万次郎の訪問に船長はとても驚きながら、喜んでくれました。

実に21年ぶりの再会でした。しかし港の様子だけは変わってしまっていました。

かつてはたくさん捕鯨船が停泊し、活気に溢れていた港はすっかり静かになっていたのです。

そこで万次郎は、捕鯨の時代が終ったことを悟ったのでした。

そこからヨーロッパに移動するも、足の潰瘍が悪化してしまい、ロンドンに1人残って治療に専念することになります。

日本に帰ってきてからも脳溢血で倒れ、万次郎が治療を受けている間も時代はどんどん過ぎていくのでした。

1871年11月、明治政府から欧米遣外使節団が派遣されました。そこにはかつて万次郎の教え子だった板垣退助や後藤象二郎の姿がありました。

もう自分の時代は終ったと、病後万次郎は全ての公職から退いたのでした。

その後は山内容堂とお茶を飲んだり、家でのんびりする余生を送ったそうです。

そして1898年11月12日、71歳で万次郎は生涯を終えました。

ジョン万次郎は何をした人?まとめ

いかがでしたでしょうか!

日本には、偉人と呼ばれる人達が多くいますね。勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛などなど・・・

しかしあまり有名ではなくても、日本を守るために奔走していた人達がいたのです。

そういった先人達の上に今の私達があるのだと思うと、なんだか歴史はただの教科ではない気がしてきます・・・

こんな結果を残したから有名という見方だけではなく、なにをしたかった人なのかに着目するとよりおもしろくなるかもしれませんね!

【参考文献】
ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎 / 中濱武彦

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