会津戦争は明治元年西暦年に起こりました。
令和2年から数えて152年前の事です。 この会津戦争を含む幕末の動乱は人気の題材で、たくさんの映像や本になっています。
新選組、白虎隊、黒船、薩長同盟、大政奉還などは日本人なら一度は耳にしたことがある言葉ではないでしょうか。
しかし幕末関連の作品は概して登場人物が多く、それぞれの視点で描かれているので、混乱してよくわからない方も少なくないはず。
ここではなぜ会津戦争が起こったのかを、会津藩側の事情に重点を置きながら紐解いていきます!
幕府の権威が徐々に失墜・・・
250年続いた平和な江戸時代でしたが、ペリーの来航を機に江戸幕府への不満が噴出し始めます。
欧米列強による侵略を恐れる者たちは、外国の要求を撥ねつけられない幕府に見切りをつけ、天皇を尊び外国を排除する尊王攘夷を掲げて、倒幕運動を繰り広げていきました。
一部の過激派は武力行使も辞さなかったことから、京の都の治安は悪化していきます。
幕府は対策を講じようとしますが、すでに権威が失われつつあった幕府のために貧乏くじのような役目を引き受ける大名はほとんどいませんでした。
会津藩祖保科正之の残した家訓
徳川家康の孫であり、二代将軍秀忠の子であり、三代将軍徳川家光の異母弟です。
三代四代の将軍の補佐役を務め、日本史上でも屈指の名君と言われます。
その正之の残した家訓十五か条は、会津藩士としての規律を重んじ、精神のよりどころとなる重要なものでした。
長幼の序や順法精神などが書かれたこの十五か条の中にはこんな文言もありました。
「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」
簡単に言うと「藩主は将軍家のために忠義を尽くし、他家の動向などに惑わされてはいけない。もし藩主が将軍家に従わないなら、それはもはや我が子孫ではなく、家臣もそのような藩主に従ってはいけない」というものですね。
これが幕末の会津藩主松平容保の判断に多大な影響を与えていくことになります。
会津藩主・松平容保が務めた京都守護職拝命
長州藩士や一部の公家による尊王攘夷運動が高まり、京の治安維持や要所の警護のために幕府は京都守護職という新職を設けます。
しかし、多くの大名は権威が衰えつつあった幕府のために、反幕府派の憎悪の的になりかねない役目を引き受けようとはしませんでした。
そんな中、会津藩主松平容保は藩祖の家訓十五か条に従って、あえて京都守護職に就く決意をします。
八月十八日の政変では長州を御所の警護からはずし、一部の公家とともに京から追放しました。
過激な尊王攘夷運動を快く思っていなかった孝明天皇はこれを喜び、感謝のしるしとして御宸翰と御製(天皇からの手紙と和歌)を与えます。
容保は、この御宸翰と御製こそが自分が忠義の士であることの証だとして生涯大切にしました。
一方追放された長州藩士たちは会津への恨みを抱きながらひそかに京に戻り、巻き返しをはかっていました。
新選組名を変え池田屋事件おこす
幕府のもと清河八郎によって結成された浪士組は、その後京都守護職の預かりとなり新選組と名を変えました。
京の治安維持に当たっていた新選組は、松平容保を暗殺して孝明天皇を長州に迎えるという長州藩士らの計画を知ります。
その謀議の場となっていた池田屋に乗り込んだ新選組によって、長州の計画は阻止されました。
さらに挙兵して京の町に戦火を広げた禁門の変を起こした長州でしたが、会津藩・薩摩藩・新選組らに撃退され、一時京での活動は消滅してしまいました。
薩長同盟から戊辰戦争の始まり
幕府のもと清河八郎によって結成された浪士組は、その後京都守護職の預かりとなり新選組と名を変えました。
京の治安維持に当たっていた新選組は、松平容保を暗殺して孝明天皇を長州に迎えるという長州藩士らの計画を知ります。
その謀議の場となっていた池田屋に乗り込んだ新選組によって、長州の計画は阻止されました。
さらに挙兵して京の町に戦火を広げた禁門の変を起こした長州でしたが、会津藩・薩摩藩・新選組らに撃退され、一時京での活動は消滅してしまいました。
松平容保も会津藩で謹慎し、恭順の意を示そうとしました。
ついに戦いの場は会津へ
しかし、会津への敵意を募らせていた新政府軍はそれを受け入れず、松平容保の自刃を要求するなど容赦がありませんでした。
東北諸藩は会津に同情的だったため、奥羽越列藩同盟を結成して会津の赦免嘆願をしましたが、まったく認められず、それどころか会津征討を命じられます。
反発した東北諸藩は新政府軍と敵対することになりました。
会津としても、誰も引き受けなかった役目を果たし、誰よりも徳川家や天皇に忠義を尽くしてきた会津に非はないという思いが強く。
新政府軍の要求を飲むことで自らが賊軍であるとの汚名を着ることは耐え難いことであったと思われます。
圧倒的な兵力で新政府軍は次々と東北への進軍を開始。
兵力を補うため二本松藩の二本松少年隊、会津藩の白虎隊・玄武隊・娘子隊など若年者、老年者、女性も武器を取り、総力を上げて新政府軍に抵抗しました。
白虎隊の覚悟と悲運
中でも飯盛山で多くの少年兵が切腹した白虎隊の話は有名です。
ボーイスカウト創始者パウエル卿も故郷と家族のために立ち上がった白虎隊の話に感銘を受け、運動の基本精神に取り入れました。
1986年、2007年、2013年にはドラマ化もされています。
白虎隊は16~17才の武家の男子343名で構成され、本来は予備兵力でした。
戦局が危うくなり、いよいよ出陣命令が下った白虎隊でしたが、その中の士中二番隊は山中で指揮官とはぐれてしまいます。
敵との戦闘で負傷者も出る中、空腹と疲労に耐えながらようやく城下町を見下ろせる場所に到達しましたが、その時町には火が広がっていました。
ドラマではこの時に鶴ヶ城も焼け落ちたと誤認し、悲観して自刃したという展開が多いのですが、実際には城を目指して味方と合流するか、玉砕覚悟で敵と戦うか、潔く自刃するかで議論が交わされた、と生き残った飯沼貞吉が手記に書き残しています。
会津戦争の終結
一か月にわたって籠城戦に耐えた会津でしたが、同盟諸藩も次々と敗れていき、食料の不足や兵の疲弊により、ついに新政府軍に降伏するに至りました。
砲撃を受け続けた城はもはやぼろぼろ。
新政府軍は戦死した会津藩士の埋葬を許さなかったとされていましたが、近年見つかった新たな史料には、新政府軍による埋葬禁止を否定する記録が残されています。
容保は謹慎となり江戸へ護送され、会津藩の武士らは転封先の斗南、現在の青森県むつ市に移住させられました。
しかし、斗南での生活は相当厳しかったと伝えられています。
平成になっても出身地を理由に結婚を反対されたり、政治家の発言など、薩長と会津の確執が消えてはいないことを示すエピソードは数多くあります。
先人たちはなぜ戦ったのか
あくまで忠義を重んじ、真面目に献身の道を歩んだ会津。
外国の脅威から日本の未来を憂い、そのために幕府を滅ぼそうとした薩長。
後世のわたし達が動乱の真っただ中にいた彼らの判断を安易に批判することはできません。
家族を殺され、故郷を踏みにじられた恨みは人であれば当然抱くものです。
ただ、旧幕府軍も新政府軍も外国の軍隊の力を借りることはありませんでした。
その事が、両者が外敵から日本を守るという共通の大義を持っていたことを証明しているのではないでしょうか。
会津戦争はなぜ起きた?会津藩の事情をわかりやすく徹底解説します!まとめ
筆者が初めて会津戦争を知ったのは1986年日本テレビで放送された「白虎隊」でした。堀内孝雄さんによるテーマソング「愛しき日々」と共にひどく感動したのを覚えています。
1993年に見つかった元白虎隊の酒井峰治さんの記録から新たにわかった事実を加えて2007年には山下智久さん主演でテレビ朝日により再びドラマ化されました。
筆者ビデオテープが擦り切れそうになるくらい何度も見た後、DVDを買いました!何度でも泣けるおすすめの作品です。もし興味を持たれた方がいればぜひ見ていただきたいです。
ドラマはすべて真実ではありません。広大な歴史のほんの一部を切り取って制作者の解釈や創作を加えたものです。
ですが、入口としてはとても入りやすいですし、そこからどんどん興味を広げて歴史を身近に感じてもらえたらと思います。