「もう、ここらでよか」
西南戦争を戦い抜いた西郷隆盛(さいごうたかもり)は、死ぬ間際に意味深い言葉を残しました。
明治維新三傑として、新生ニッポンを作った英雄でもある西郷隆盛。柴犬を連れた銅像に見る西郷隆盛は、心の大きな温和な人間に見えます。
そんな西郷隆盛が九州全土を激戦地にした戦争を、なぜ起こしたのか?
わかりやすく解説します!
わかりにくい「征韓論」とは何か?わかりやすく解説!

西南戦争のそもそもの原因となる征韓論。
韓国(朝鮮)を征服しようというわけではありません。
わかりやすくいうと、韓国(朝鮮)に日本の防波堤になってもらおうということです。このころの日本周辺で強大な国といえばロシアです。
韓国(朝鮮)にも力のある国になってもらってロシアからの侵攻を止めてもらおうというのです。
ところが、当時の韓国(朝鮮)は日本側の希望を聞いてくれませんでした。
西郷隆盛は、自分が韓国(朝鮮)へ行って日本の希望をわかりやすく説明してこようとしたのです。
韓国(朝鮮)側は、過去の歴史から日本の侵略と考えたので応じることはできません。
西郷隆盛の作戦がえげつない!
西南戦争のそもそもの原因となる『征韓論』。韓国(朝鮮)を征服しようというわけではありません。
わかりやすくいうと、韓国(朝鮮)に日本の防波堤になってもらおうということです。このころの日本周辺で強大な国といえばロシアです。
韓国(朝鮮)にも力のある国になってもらってロシアからの侵攻を止めてもらおうというのです。
ところが、当時の韓国(朝鮮)は日本側の希望を聞いてくれませんでした。
西郷隆盛は、自分が韓国(朝鮮)へ行って日本の希望をわかりやすく説明してこようとしたのです。
韓国(朝鮮)側は、過去の歴史から日本の侵略と考えたので応じることはできません。
西郷隆盛の作戦がえげつない!
そこで西郷隆盛は、韓国(朝鮮)側が応じない場合の作戦も考えていました。
西郷隆盛をわざと韓国(朝鮮)側に殺させることだったのです。日本の英雄である西郷隆盛が殺されれば、日本側は黙っていることはできないでしょう。
韓国(朝鮮)を武力で制圧し、日本に従わせることでロシアへ対抗しようという考えも持っていました。
この西郷隆盛自身が犠牲なると言う作戦、本人が考えたと言うのだから半端じゃない志ですよね!
この危険な考えを知って、西郷隆盛を止めようとしたのが大久保利通(おおくぼとしみち)でした。
幕末の戦争を終えて、やっと日本がまとまり始めたところで、また戦争をすることなどできません。しかも、隣の国を無理やりでもいうことを聞かそうというのですから、賛成できるわけがありません。
「きっと、あいつなら、やり遂げてしまう。」
大久保利通と西郷隆盛は、故郷・鹿児島の幼なじみでした。
西郷隆盛の考えも行動も、よく知っているのです。 大久保利通は、明治天皇を巻き込んで韓国(朝鮮)へ行くことを中止させます。
一度決めたら徹底してやり抜くところが西郷隆盛らしいところ。
西郷は自分の考えが受け入れられなかったことを不満に思い、鹿児島へ帰ってしまったのです。
この出来事は明治六年の政変といいます。
西郷隆盛自身は、別のやり方で日本作りをしていこうと考えて鹿児島へ帰りました。しかし、周りは東京政府から西郷隆盛は追い出されたと思い、不満を持ったのです。
私学校の目的・国土防衛にはわかりやすく武士を作ること!

鹿児島に戻った西郷隆盛は、私学校という武士の養成所を作ります。
自給自足で生活をしながら、ロシアが侵攻してきたときには戦力となる武士を育てようというのです。
現在の鹿児島は、江戸時代までは薩摩と呼ばれていました。
薩摩の武士は薩摩隼人(さつまはやと)といわれる強い戦闘集団として有名でした。
いずれロシアと戦争するときがくる!
そう考えていた西郷隆盛は、そのときに備えて薩摩武士の集団を作ろうと考えたのです。
明治の英雄・西郷隆盛が作った私学校です。たちまち生徒は鹿児島全土から集まってきました。
さらに、鹿児島県も西郷隆盛の考えに賛成して、県内の主要な長(今の町長や村長)に私学校出身者を採用したのです。
このことは、東京政府からは反乱の疑いをかけられます。
“東京政府から追いだれた西郷隆盛は、鹿児島独立国家を作っている!”
朝鮮にさえ戦争をしようとした西郷隆盛のことです。東京政府に戦争をしかける理由は、十分に考えられたのです。
「新生ニッポンを強い国にしたい!!」
その西郷隆盛の気持ちは、東京政府には伝わらなかったのです。
西南戦争は日本語の勘違いから始まった!?

東京政府は、西郷隆盛と私学校の集団が反乱などを起こすのではないかと疑いました。
そこで東京政府はスパイをたくさん送り込みます。
鹿児島の周辺は、薩摩弁といわれる独自の言語を持っていました。
外から来た人たちが理解することができないほど、難しい言葉だったのです。
そのため鹿児島出身で、今は東京政府で働いている人たちがスパイとなったといいます。
当時の東京政府トップ・大久保利通は、こう命令します。
「サイゴウタチヲ、シサツセヨ」
この命令を受けて鹿児島へ潜入したスパイの一人が捕まってしまいます。
激しい拷問を受けたスパイは、その目的を白状します。
「西郷をシサツに来た・・・」
スパイが言った言葉の意味は、
シサツ → 視察 (詳しく調べるという意味)
ところが、捕まえた方では、
シサツ → 刺殺 (刺し殺すという意味)
こう考えたのです。 西郷さんが殺される!
鹿児島の英雄である西郷隆盛が殺されると思った私学校の人たちは、西郷隆盛を守るため東京政府へ戦争を始めることにします。
スパイが“視察”なんて難しい言葉を使わずに、「西郷たちを見張りに来た」とわかりやすく言っていたら、西南戦争にはならなかったのでしょうね。
日本最後の武士VS日本最初の兵隊!西南戦争のわかりやすい構図!
西郷隆盛自身は戦争をする気などひとつもなかったといいます。
ところが、自分の生徒たちが戦う気になってしまったのですから、西郷隆盛も西南戦争へと進んでいくことになります。
明治が始まってから、たった6年。
幕末の戦争を経験した人々も多く、全国にも有名な戦闘集団「薩摩隼人」ばかりです。
しかも、総大将は明治の英雄・西郷隆盛ですから、そのビッグネームに集まった人数は3万人にもなりました。
実は西郷軍には、ひとつの過信がありました。
薩摩隼人と西郷隆盛と聞けば、ほとんどの人たちは恐れて降伏すると思っていたのです。
ところが、東京政府軍はそんな西郷軍に、最新式の軍隊と兵器で対抗してきたのです。
西郷軍は、刀を使った戦闘では無敵の強さでした。 東京政府軍にも多くの死傷者が出ました。
一人一人は弱くても、兵隊の使い方と性能の良い銃や大砲で東京政府軍も西郷軍に死傷者を与えていきます。
熊本城から始まった西郷軍との戦闘は、熊本県南方→宮崎県→鹿児島県と後退していったのです。
鹿児島へ戻った時の西郷隆盛たちは、たったの300人ほどに減っていました。
負けることが決まった西郷隆盛は、鹿児島県を見渡せる飯森山で自殺します。
西南戦争をわかりやすく解説します!すれ違いと勘違いの残酷な戦いだった!まとめ
それぞれのこれからの日本の姿を追い求めて、国づくりをしていた明治。
西郷隆盛の思いは、少しだけ他の人とズレていたのかもしれません。
その少しのズレが、大きな亀裂となって西南戦争は起きてしまいます。
平和な国・日本を作りたかった気持ちは同じだったはずなのに、戦争という形になってしまったのは悲しいことですね。