この記事では、木戸孝允がどういった人なのかわかりやすく解説し、改名の理由などについてみていきます。
さて、知らない人も結構多いのですが、一度は聞いたことがある桂小五郎と木戸孝允という名前。この2人は実は同一人物なんですね。
尊皇攘夷派の代表的な存在に・・・?
前半は改名前の桂小五郎で解説していきます。
桂小五郎は江戸では多くの志士と交流し、朝廷を尊び海外勢力を日本から追い出す尊皇攘夷派の代表的な存在と成長していきます。
しかしながら、1864年8月18日の政変で長州藩が京都から追放される事件が起きたため、桂は京都での自由な活動が困難に。
8月18日の政変後も復権を目指して、長州藩の志士たちがひそかに京都に潜入し始めました。
桂もひそかに京都に潜入していた時期に、あの有名な池田屋事件が起きたのです。
池田屋事件勃発!
会合時間より早く池田屋についた桂小五郎は、対馬藩邸で別の用事を済ませてから参加しようと池田屋を後にしたまさにその時に、新選組により池田屋が襲撃。
桂小五郎は、まさに危機一髪のところで生命の危機から逃れる事のできた強運の持ち主だったのですね!!
当時の過激な志士たちは京都守護職の松平容保の会津藩や幕府から警戒されており、状況次第では捕縛もしくは斬られてしまう存在でした。
そのため桂小五郎は何とか尊王攘夷活動を成就させるまで死ぬわけにはいかないと、数個の名前を使用し幕府の目を逃れながら潜伏生活を継続します。
桂小五郎は幼少期より博学で、長州藩の京都や江戸における外交面では傑出した業績を残しました。
これは彼が有能であった証拠であるとともに、多くの志士たちが動乱の中で命を失う時代に生き残る事ができた、強運の持ち主であったからだと思います。
桂小五郎が改名した名前の数がすごい!
桂小五郎は命の危険もあり数回名前を変えています。 8歳までは和田小五郎という氏名を使用しており、その後桂小五郎として活動。
改名した名前
- 新堀松輔(幕府からの追及を逃れるため使用)
- 広戸孝助(幕府からの追及を回避するため)
- 木戸準一郎(木戸姓を毛利敬親から拝命したころ)
- 木戸孝允(木戸姓をそのままにしたうえで木戸家の当主として改名)
なんだかスパイさながらの改名っぷりですね。
桂小五郎が木戸孝允に改名したわけ!
桂小五郎はいつから木戸孝允と名乗るようになったのでしょうか?桂小五郎は長州藩の外交面を主に担当しました。
その桂小五郎が幕府からの追及を受けていたため、藩主の毛利敬親が 「桂小五郎は行方不明という事にして木戸孝允と名乗れば対外的な活動をしやすくなる」 と便宜を図ってくれたのです。
(正確には最初は木戸準一郎が最初の名です。)
なんだか適当な感じもしますが、当時はそれが通用したんでしょうね。
桂小五郎は当時幕府や新選組などの追及を逃れるため数々の氏名を使用していましたが、藩主から頂いた名前は別格です。
※この記事で明治維新以後は桂小五郎ではなく木戸孝允で統一していきます。
桂小五郎と薩長同盟
薩長同盟は桂小五郎の外交手腕がいかんなく発揮された典型的な出来事です。
長州藩は禁門の変で御所内に実力行使で入ろうとした罪により、朝敵として長州征伐を受けることになり、それは2度行われました。
一度目は長州藩の降伏で、戦闘はなく終了。
しかしながら長州藩の幕府と戦おうとする意志は固く、特に高杉晋作や伊藤博文など若い藩士たちは幕府との決戦を行うべしと長州藩での勢力拡大に努めます。
長州藩は若手の志士たちにつられるように、幕府に従おうとする保守派を一掃し再び幕府との対決を意識します。
幕府は長州に反逆の意志ありとして長州征伐を再び決定し、隣国の大名に長州藩に攻め込むよう命令を出しました。
周囲を敵にして苦境に立つ長州藩にとっては、まさに存立の危機! 周囲の諸藩をすべて敵に回し戦うだけでも不利な上に、なんと長州藩に武器を売る事を禁止されていたのです。
長州藩は士気が高く戦う気持ちはありましたが、周囲をすべて敵に囲まれ武器も手に入らないでは厳しい戦が予想されます。
桂小五郎、抜群の外交力を発揮!!
長州征伐が行われる直前に、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷隆盛と会合します。
坂本龍馬も人たらしと言われるくらいの人物っだったそうですし、コミュニケーション能力や外向性・社交性というものは、政治に大いに役立つようですね。
そして、かつて長州と薩摩藩は対立し遺恨もあった両者が無事薩長同盟を締結しました。
ここで薩摩藩は長州征伐に参加しない事が決まり、また長州がぜひ欲しかった武器も薩摩藩経由で入手可能になります。
桂小五郎の外交的な勝利といえますね!! 明治維新後は木戸孝允と正式に名乗るようになります。
木戸は五か条のご誓文の制定に深くかかわり、260年近く継続した「大名による領地」や「領民支配」を廃止し、全国に政府の意思が伝わる県を設置する(廃藩置県)中心メンバーとなります。
桂小五郎と西郷隆盛との対立
廃藩置県の中心的存在として活躍した木戸孝允(桂小五郎)はその後、岩倉使節団に参加することになり欧米の優れた文化や技術などを学んで帰国しました。
木戸孝允にとって日本は、欧米から後れをとった国になってしまったのです。
帰国後はさっそく欧米の技術を積極的に取り入れ、近代化をしなければ大変な事態が起きてしまうと危機感を持ちはじめます。
武士の不満が爆発、西南戦争へ
一方、木戸孝允が日本に帰国した当時の日本は、武士の処遇に悩んでいました。
近代化を行い日本を文明国にしていくには、武士のみを特別扱いするのは現実的ではありません。
武士の給与を削減し、近代化のため矢継ぎ早に行う政府の改革はどんどん武士の生活を困窮させていきました。
そうした現状に不満を持ち始めた武士は、明治新政府を去り当時薩摩に帰っていた西郷隆盛へ期待を集めるように。
もともと西郷隆盛は士族救済をするため征韓論を唱えるなど士族に同情的っだったのです。
近代化を図るため武士を特別扱いできないと考える木戸に対して、武士に同情的な西郷。
最終的にはこれが1877年の西南戦争の要因となりました。
木戸は、西南戦争が峠を越えつつある5月に病を得ます。 西南戦争は1877年9月に終結するため、まだ途上でしたが有能な木戸にはある程度その趨勢は読めていたかもしれません。
病床の中で木戸は「西郷もいいかげんにせんか」と言っていたと伝えられています。
木戸は1877年5月26日に、享年45歳でその激動と波乱に満ちた人生に幕を閉じました。
木戸孝允をわかりやすく解説!改名の理由は?まとめ
桂小五郎は長州藩の武士として江戸や京都で活動している内に、新選組や会津藩さらには幕府に要注意人物として警戒されます。
外交面の活動が主な桂は、活動が十分できない状態で藩主からいただいた桂という姓を使用するようになった、というわけで・・・ 桂小五郎と木戸孝允は同一人物です。
長州藩は人材の登用に積極的であり、他藩を圧倒するくらいの勢いで維新を成し遂げます。
新政府でも萩の乱など一部の士族反乱はありましたが、木戸が中心となり新政府を育てていく体制側に入るようになります。
木戸はあくまで「日本の現状を正確に把握し、産業の育成や日本の政治システムの近代化を図るために何をなすべきか」という基本スタンスを変えずに行動した、実務型の政治家でした。