毛利元就(もうりもとなり)の名前を、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
毛利元就は謀略に長け、数多い戦国武将の中でも評価の高い人物です。
3本の矢の話は有名ですが、何をした人なのか知らない方もいらっしゃるかもしれません。
そこで、中国地方の覇者・毛利元就について、その生涯や功績、逸話などを徹底解説してまいります!
毛利元就の生涯
毛利元就という武将を理解するために、まずはその生涯からご紹介してまいります。
毛利元就の生い立ち
毛利元就の父である毛利弘元(ひろもと)は、安芸(あき)国吉田(現在の広島県吉田町)で3千貫の地を支配する在地管領に過ぎませんでした。
毛利元就は5歳のときに母を失い、10歳で父がなくなります。
その後、父からもらった3百貫の領地を後見人の井上元盛(もともり)に横領されて、居城だった猿掛城からも追い出されてしまいました。
そのため元就は、父の側室だった杉の大方に引き取られて面倒を見てもらったのでした。
少年期から青年期にかけて、毛利元就は苦労の連続でした。
しかし運命はどのように変わるかわからないのが人生です。
毛利元就には興元(おきもと)という兄がいましたが24歳の若さで死に、続いてその嫡子である幸松丸(こうしょうまる)も9歳で病死してしまいました。2人の死に伴い、毛利元就は27歳のときに家督を継ぐことになったのです。
一代で大国を築いた!
毛利元就は安芸国の弱小豪族の家に生まれながら、27歳のときに家督を継ぎ、一代で国を大きくして毛利家を盤石なものにしました。
当時中国地方で力を持っていた大内氏と尼子氏を相手に、最初は正面衝突を避けながら、配下についたり鞍替えしたりと上手に世渡りしながら様子を見ました。
調略をもって相手が弱体化したと見るや一気に滅ぼす嗅覚は戦国随一でした。
このようにして一代で中国地方を統一した毛利元就の功績は、賞賛する他ないほどに大きなものでした。
毛利元就の死因を解説
毛利元就は享年72歳と、戦国武将としては長生きの部類に入ります。
死因は病死でした。食道がんだったと言われています。
祖父や父や兄が早くに亡くなったということがあり、健康に最深の注意を払っていたという毛利元就。
しかし気をつけていても襲ってくるのが病というものかもしれません。
1566年2月、毛利元就は出雲へ出陣しているときに病に倒れています。
そのときの病名は定かではありませんが、1か月後には回復したといいます。
しかしそれから、徐々に容態は悪くなっていきます。
その翌年に末っ子の9男・秀包(ひでかね)が生まれましたが、1568年に下関で異常を訴え、さらに翌年には中風にかかって重態になりました。
1571年6月14日、毛利元就は食道がんによりこの世を去ったということです。
毛利元就の功績
毛利元就は弱小豪族の出身ながら、大内氏や尼子氏といった大勢力を相手に優れた戦略でのし上がりました。
希代の策略家として知られます。
毛利元就の最大の功績は、数々の策略を用いて中国地方の覇者となったことでしょう。
この章では、毛利元就の功績について見ていきます。
中国地方を制覇
毛利元就は一代でで中国10か国の覇者となりました。
若い頃から戦略に優れていたといいます。
21歳のときには、1千の兵を率いて4千余りの武田元繁(もとしげ)軍と戦って元繁を討ち取っています。
この戦いで毛利元就の名は上がり、それから75歳で亡くなるまで、自ら戦場に臨み続けたといいます。
元就が指揮した合戦は2百数十回にも及ぶと伝えられています。
当時の中国地方の情勢は次の通りでした。
盟主は中国地方と北九州に覇権を伸ばして7か国の守護を兼ねた大内氏。
その大内氏の牙城を切り崩すべく台頭してきたのが出雲守護代から戦国大名に成り上がった尼子氏でした。
この2家に挟まれて苦しい外交をしていたのが毛利氏でした。
兄の興元は、その板挟みを苦にして心労が重なり酒に溺れて20代の若さでこの世を去ります。
家督を継いだ毛利元就は知略を巡らせてのし上がっていきます。
当初、毛利元就は尼子氏の配下でしたが大内氏に鞍替えし、安芸国内で勢力を拡大しました。
毛利家の台頭に危機感を持った尼子氏は毛利元就の居城である郡山城を攻めました。
毛利元就は大内氏の援軍とともに尼子氏を撃退したほか、その配下の安芸武田氏を滅亡に追いこんだと伝えられています。
この吉田郡山城の戦いをきつかけに、毛利元就は周辺豪族の盟主のような存在になっていきます。
そして、安芸の名族・吉川(きっかわ)氏と水軍(すいぐん)を所有する小早川氏に自分の息子を養子に出し、家督を継がせました。
特に水軍を手に入れた毛利元就の戦力は格段に向上したのです。
大内氏の当主・大内義隆(よしたか)が家臣に殺害されると、混乱に乗じて独立を図り、数年後には大内氏を滅亡させました。
その後、尼子氏も降伏し、毛利元就は中国地方8か国を制覇するに至ったのでした。
策略の数々
毛利元就は調略に長けていました。
日頃から子供たちにも「はかりごと多きが勝つ」と教えていたほどです。
そんな毛利元就の策略が光った合戦が、厳島(いつくしま)の戦いでしょう。
大内義隆を殺害した陶晴賢(すえはるかた)は、形だけ大内氏を立てて支配を強めました。
これに家臣たちの不満が高まったのを知り、毛利元就は陶氏を倒すチャンスだと考えました。しかし背後から尼子氏に攻められてはたまりません。
そこでまず、毛利元就は尼子氏に調略を仕掛けたのです。
尼子氏当主を疑心暗鬼に陥らせるべく、尼子氏のおじが毛利方に寝返ろうとしているという嘘の情報を流したのです。
これを信じた尼子氏当主はおじを殺してしまいます。
そのことで尼子氏の勢力は衰え、毛利元就は陶晴賢との戦いに専念することができたのでした。
大軍勢を擁する陶晴賢を討つために毛利元就ぐ選んだのが厳島でした。身動きの取りにくい狭い場所に誘い込んで叩くという作戦です。
相手をおびき出すために毛利元就は厳島神社の近くに小さな城を築き、陶軍に攻撃させようと考えました。まんまと引っ掛かって厳島に渡った陶軍を、毛利元就の軍勢と小早川水軍・村上水軍で挟み撃ちにし、大勝利を飾りました。
このように毛利元就は、情報操作やダミーの城など、ありとあらゆる調略を用いて戦に勝利してきたのでした。
毛利元就の逸話
毛利元就には彼の考え方がわかる逸話があります。三矢の訓は有名ですが、それとは別にお酒にまつわるエピソードもあります。
この章では毛利元就の逸話を通して、彼の人物像に迫りたいと思います。
三矢の訓
三本の矢の話は有名ですよね。
毛利元就は一族同士の争いによって家が滅びることを心配していました。
そこで元就は、3人の息子を呼んで矢を1本ずつ渡し、これを折るように言いました。1本だと簡単に折れてしまうけれど、3本束ねた矢はなかなか折れません。
兄弟が3人力を合わせて協力して困難に立ち向かいなさいと説いたのが、三矢の訓です。
3人の息子というのが、毛利隆元(たかもと)、吉川元春、小早川隆景(たかかげ)です。
毛利元就が息子たちに団結することの大切さを伝えたというこの逸話は、後世にも語り継がれていますが、本当に矢を使ったのかは不明だということです。
飲酒にまつわるエピソード
三矢の訓の他に、毛利元就には、お酒についてのエピソードがあります。
毛利元就は生涯、酒に気をつけたと言われています。
なぜなら、元就の周囲の人間はみな大酒飲みで、さけの飲み過ぎで命を縮めていたからです。
祖父の豊元(とよもと)が33歳、父の弘元が39歳、兄の興元は24歳でなくなっています。
毛利元就は長男の隆元にも、「酒は分をわきまえて飲むものだ。かりそめにも、酒で自分を失うようなことがあってはならない」と説教しています。それもむなしく、隆元は41歳の若さで急死しました。
孫の輝元(てるもと)には、母を通して「この頃、輝元が酒を飲むのを見かける。小さな椀で1、2杯なら良いが、中椀に2杯も飲むと、人は『これはいけるクチだ!』と思って強いるものだ。大きな冷汁椀では飲まぬよう、よくよく注意してほしい」と酒の心得を促したそうです。
毛利元就自身は、「わしは下戸(げこ)であったから長生きして、今に生きながらえている。酒さえ飲まなかったなら、70、80までは生きられる」
毛利元就が本当に下戸だったのかは定かではありませんが、戦国時代に75歳まで生きた彼ですから、自分自身は厳しく自己管理していたに違いありません。
毛利元就は何をした人?中国の覇者の功績や生涯を徹底解説!まとめ
以上、中国地方の覇者・毛利元就の功績や生涯、逸話について紹介してまいりました。
毛利元就は弱小豪族の出身ながら、優れた策略で中国地方の覇者となり、1代で大国を築くに至りました。
有力者たちから知略を用いて下剋上を果たしたあたり、毛利元就の優秀さが伺い知れます。
毛利元就は戦国初期に生まれて斎藤道三と同世代とのことですが、75年も生き、戦国時代に長く影響を及ぼしました。
3矢の訓を始めとして、子供たちに武将としての哲学などを教えようとしていたところが垣間見えます。そのことから、毛利家の繁栄は元就の尽力の賜物だったということがよくわかりますね。
【参考文献・参考サイト】
『2時間でおさらいできる戦国史』石黒拡親 大和書房
『読むだけですっきりわかる戦国史』後藤武士 宝島社
『戦国武将あの人の顛末』中江克己 青春出版社
『毛利元就の歴史』刀剣ワールド