大谷吉継がかっこいい!その出自に迫る!

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関ケ原の戦いにおいて、最後まで石田三成を支えた男、大谷吉継。

戦国武将の中でもかなりの人気を誇っているのではないでしょうか。

しかし、一代で身を起こした吉継。

その宿命として吉継の前半生は謎に包まれているのです。

両親の名前は?生まれた場所は?

残された少ない史料から浮かび上がる吉継の出自とは!?

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目次

大谷吉継の父は誰?

前半生が謎に包まれている吉継。

そもそも父親についても、江戸時代以来いくつかの説がささやかれていますが

吉継の死から約100年後には、すでに誰が父親であったのか分からなくなってしまっていたのです。

ここでは、いくつかの説を紹介していきます!

大谷盛治説

1つ目の説は古今武家盛衰記、落穂集などの伝記集に見える大谷盛治という説です。

古今武家盛衰記には以下の様に記されています。

「吉隆(吉継の別名)は桓武帝の描裔平貞盛の孫、大谷仲記盛胤が末葉なり。盛胤は、平治の乱に清盛の先登を司り、(中略)美濃に三千町を領せしが、頼朝の時、美濃を逐電し、(中略)程なく卒す。

一子あり、外記といふ。(中略)成長して大友豊後守家人とす。此時大谷平治郎盛治と改め、(中略)大友一二の者となる。然るに大友宗麟が代滅亡するに因って、大谷が子孫も流浪し、諸国に漂泊す。

(中略)太閤播半州を領し、姫路城主たる時、故ありて石田(三成)が取持にて召出され、」

大谷氏は桓武天皇の子孫、桓武平氏の一族であり、平清盛に仕えたと記されています。

平家が滅亡すると姿を隠し、豊後の大友氏の家臣になったとされています。

大友家滅亡後は、秀吉が姫路城主であった時、石田三成のとりなしで秀吉に仕官したとされています。

この説は日本で最大の歴史百科である国史大辞典にも採用され、広く知られているのです!

しかしこの説は幾つかの矛盾点をはらんでいます。

まず大友氏家臣に大谷氏の名前が見えないこと。

次に吉継は天正十一年(1583)には秀吉に仕官していた事が判明しています。

これは大友氏滅亡以前であり、古今武家盛衰記の記述は信用できません。

大谷吉房説

2つ目の説は近江国の大名、六角義賢に仕えた大谷吉房という説です。

この説は系譜学の大家、太田亮氏の著作、姓氏家系大辞典に記されています。

この書に拠ると近江大谷氏は、在原業平で有名な在原氏の末裔だとされています。

在原氏は平城天皇(51代天皇)皇子、阿保親王の子供達が在原姓の賜った事から始まります。

親王の子である行平は正三位、中納言の高官に昇りました。

しかし行平の子、遠瞻は六位、右近将監に終わり、貴族の地位に昇る事は出来ませんでした。

以降、遠瞻の子孫は朝廷では無名の地位となり、地方へと進出したと考えられるでしょう。

遠瞻から12代子孫、朝妻行吉の代に大谷を名乗りました。

行吉の孫、吉忠の代に信楽(甲賀郡)に移住、吉忠から10代子孫の吉房の代に六角義賢に仕えたとされています。

甲賀郡の武士が六角氏に仕えていた事は確認されています。(山中氏、三雲氏等)

しかし六角氏家臣としての大谷氏の活動は、史料上では確認できないのです!

ただもう一つ在原姓大谷氏の説があります。

大谷庄作説

江戸時代の地誌である淡海温故録に、上述の説とは異なる在原姓大谷氏の説があります。

淡海温故録に拠ると吉継は、伊香郡大谷村の大谷庄作の子供であるとされています。

上記の系図中の行吉が文治年間(1185~92)に大谷に来住。

行吉の十数代の子孫に庄作がいました。

この庄作、子供がいない事を嘆き氏神の八幡神社に祈った所、なんと一子を授かったのです!

この子が後の大谷吉継だというのです!

上記の系図には行吉が朝妻から大谷に改めた事が記されています。

これは、行吉の大谷移住を示しているのでしょうか?

しかしこの場合、吉房と庄作は別人という事になってしまうのです。

ちなみに、伊香郡など北近江では、武家大谷氏の活動を僅かに確認出来ます。

本願寺十世証如の天文日記という史料があります。

天文七年十月十六日に京極家家臣として「大谷和泉」の名が見えます。

しかしこれ以降大谷氏は史料に登場しません。

京極家に代わって北近江を支配した浅井家家臣にも大谷氏の名前は見えず、吉継の関係性も見出す事は出来ません。

以上、3つの説を紹介してきました。

残念ながら、吉継の父から出自を考察する事は困難なようです。

次に吉継の母親に焦点を当てて考察していきます!

吉継の母「東殿」はどんな人?

実名すら判然としない吉継の父。

しかし母については名前が判明しています。

その名は東殿。

戦国時代の公卿、吉田兼見の日記(兼見卿記)に、秀吉の正室北政所に仕えていた事が判明しています。

東殿はどのような出自の人物だったのでしょうか?

東殿は秀吉の親戚!?

東殿は秀吉と縁戚関係にあったとする説があります。

1690年に成立した関原軍記大成に吉継の出自について記載があります。

巻一には、「政所(北政所)の御母朝日の局の甥」とあります。

秀吉正室の北政所のいとこであると記しています。

しかし同書巻十九には、「秀吉公の御母公の大庁の甥」とあり、秀吉のいとこであるとしているのです。

記述が一致していません。

そもそもこの書は軍記物語であり、この記述もあまり信憑性がありません。

では東殿の出自はどこに求められるのでしょうか。

青蓮院坊官大谷家との関係性

それでは東殿の出自はどこに求められるのでしょうか。

「校訂増補天台座主記」という史料にそのヒントがあります。

秀吉が延暦寺再建への経緯を記す文中に、「寺家執当後家東申女房」という人物が見えます。

この人物は秀吉の側近であった事も記されています。

寺家執当とは延暦寺の総務を行う僧侶の事です。ここに東殿と延暦寺の関係性が浮上してきたのです!

更に大谷吉継の出自について、近年注目されている史料があります。

それは華頂要略という史料です。

この史料は青蓮院門跡の坊官である大谷家の系図が記されています青蓮院門跡は延暦寺の頂点に立つ天台座主を度々輩出しています。

華頂要略は系図の一級史料である尊卑分脈との差異も少なく、信憑性はかなり高いと言われています。

この系図では大谷家は在原業平の子孫とされています。

上述の系図でも在原姓の系図を紹介しましたが、それとは史料の信頼度が違います!

業平の子、師尚は高階氏を継いだため本姓は高階になると思われます。

吉継は泰珍の子で、泰増の弟であるとしています。吉継にも延暦寺との繋がりが見えてきましたね!

しかし泰増の母は「南同」という名前である事が記されており、東殿とは別人です。

残念ながら、この系図では東殿と吉継の関係性は見つける事が出来ませんね。

現在では東殿が泰珍の子で、寺家執当の僧侶と結婚。

その僧侶との間に吉継を授かり、夫と離別後、大谷家に吉継が養子に入ったのではという説が提唱されています。

真相は未だ定かではありません。

しかし吉継の出自を考える上で、坊官大谷家との関係はとても重要だと考えられますね!  

吉継の生年は?

吉継の生年についても諸説ささやかれています。

その中でも有力な説は以下の二説です!

 永禄二年説

従来の定説はこの永禄二年(1559)とされてきました。

これは関原軍記大成などの「行年四十二歳」と記されているためです。

しかし、近年新たな説が有力視されているのです!

永禄八年説

永禄二年説に代わり有力視されている説。

それは永禄八年説です。

兼見卿記天正二十年正月三日条にこのような記述があります。

「ひかし殿(東殿)子息刑部少輔二十八才」

ここから吉継の生年が永禄八年である事が判明するのです!

兼見卿記と関原軍記大成では前者の方が圧倒的に信頼度の高い史料とされています。

しかしながら前述の国史大辞典には永禄二年説が採用されており、永禄八年説はあまり知られていないのです。

刑部少輔任官時の謎

秀吉が関白に就任した天正十三年(1585)

これに合わせて秀吉の家臣にも朝廷より官位が授けられています。

吉継もこの時、従五位下、刑部少輔を授けられました。

「大谷刑部」という有名な通称はここに由来するのです。

しかし、官位任官時にも吉継の出自に関する謎があるのです。

吉継はなぜ源氏を名乗った?

吉継の官位任官を記す史料に歴名土代(れきみょうどだい)という史料があります。

歴名土代は南北朝時代~江戸時代初期までの四位~五位の位階有位者の叙位年月日を記録した史料です。

武家の叙位記録も記されており、武家と朝廷との関係性を調べる上でも貴重な史料になります。

吉継については従五位下の項に以下の様に記されています。

「源吉継 同(天正)十三(年)七(月)十一(日)」

朝廷とのやり取りに関する公文書では苗字ではなく、本姓で署名する事が慣例です。

吉継の場合、大谷が苗字、本姓をここでは源氏としているのです。

しかし前述した説から判断すると本姓が平の場合は「平吉継」。

在原姓なら「在吉継」、高階姓ならば「高吉継」と記載される筈です。

なぜ源姓を名乗ったのでしょうか?

これは推測にすぎませんが、在原、高階共に武家としての歴史は殆どなく、武家の棟梁たる源氏に改姓したという事も考えられます。

また東殿の夫である寺家執当が源姓であった可能性もあります。

この時代、秀吉の様(平氏→藤原氏→豊臣氏)に武家の改姓はよく行われており、吉継もその一環であると考えられます。

大谷吉継がかっこいい!その出自に迫る!まとめ

謎に包まれた吉継の半生。

読者の皆様はどの説が正しいと思いましたか?

出自すらも定かではありませんが、残された史料をパズルの様に組み合わせて考察するのも歴史の醍醐味ではないでしょうか。

またこの謎の多さも吉継の魅力を一層高めているのではないかと思います!

参考文献

「尊卑分脈」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182864

「炎の仁将 大谷吉継のすべて」著:歴史読本編集部 新人物往来社

「大谷吉継」著:外岡慎一郎 戎光洋出版

「古今武家盛衰記」 https://dl.ndl.go.jp/pid/985956/1/165

「歴名土代」 編:湯川敏治 続群書類従完成会

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